そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

日記

 十月二十五日。木曜日。夜。月のきれいな夜だった。妻とヴィゴ・モーテンセン主演の映画「はじまりへの旅」を観ていた。ヴィゴ・モーテンセンアラゴルンです。けっこうおもしろかった。

 

 映画中、なんだか腹の容子がおかしいぞ、と妻から申告される。まぁようするに「産まれそう」ってことなので、病院にテルし、LDRは空いているかと確認したところ、空いているとのことだったので、息子を抱きかかえ、いそぎ車に乗り込み総合病院へと向かったのである。

 

 夜半、総合病院へ着く。受付がとんでもねぇクソだった。ってゆうか総合病院って役所みてぇでもうホントきらい。ようたの時は産院だったのだけれど、産院っていいよ。やさしい。妊婦への配慮をきちんとしてくれる。それに比してなんなんですか君たちは。恥じろ人生。

 

 安産だった。妻は死にそうだったけど。酔拳2でジャッキーチェンが工業用アルコール飲んだときみたいな顔してた。四時間くらいで呱々の声があがった。十月二十六日。金曜日。午前四時三〇分。ようたも起きてた。途中で愚図ったので怒ったけど。ごめんね。

 

 男の子だった。ってゆうか知ってたけど。ようたは生まれた瞬間から紅顔の美少年たる気配をたずさえていたけれども、今回はふつうに嬰児だった。いや、かわいいですよ。たぶんそのへんの子よりは二千倍。

 

 ひんやりとした六時半。帰宅した。朝帰り。悪い子ね。って今日ゴミの日やんけ。いやー安産よかった。ゴミ、出せた。よかったよかった。っておれは少し寝たかったけれど、ようたがちょいちょい寝ていたので帰宅するとすごい元気だった。トトロが観たい、とかいうけれどさいきんレコーダーを交換したばかりで今テレビについているレコーダーにはトトロのデータが存在せず、いちいち古いレコーダーを取り出して、テレビに接続せしめ観さした。一時間くらいで飽きた。てめぇ。

 

 会社とか保育園に連絡した。朝餉というかブランチはカップヌードルにした。息子からのリクエスト。外ですこし遊んだ。ねてぇけど。ようたがさいきん生け捕りにした蟷螂に餌をやる。餌はモンシロチョウ。おれはさいきん昆虫採集の腕前がぐんぐんあがっている。

 

 不規則な睡眠だった。ようたが午睡をたくさんした。ってゆうか本睡? おれはちょっと家のことをした。洗濯とか。洗い物とか。つうか日曜の夜、母が来るというのでその仕度をした。布団の準備とか。めんどうだからこなくてもいいのに。たぶん彼女なりに焦りがあるのだとおもう。祖母としての焦燥。まぁしょうがねぇじゃん。

 

 面会しに病院へ行った。なんだか一日の境界線が曖昧だった。今日が何曜日の何時なのか。おれはだれ? ヴィゴ・モーテンセン? いかすぜオーケー。まーた総合病院の対応に腹辰則。お役所的「なんで君そんなことも知らないの?」っちゅう態度であった。妻が退院したら爆破する予定。

 

 夕刻。ようたが「かまきりの餌獲り」に惑溺沈湎マイブーム。しかし夜の降ってくるスピードが急激にあがったため、虫たちもお尻を出した子一等賞状態。そんなとき、ご近所さんから、ようたくーん、と息子を呼ぶ声がする。おめでとうござい。てぇへんでしょうに。うちでちょっと預かりますよ、ってなことでありがてぇ。ほんとにありがてぇ。っておれはすこし寝た。というかあれは気絶だとおもう。

 

 晩飯は牛丼。牛丼を食うたびに脳内のノエルギャラガーが「ロックだな」と云う。くそうまい。ようたといっしょに「クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望」を観る。おもしろかった。風呂に入って寝た。途中で起きて、また家事をした。

 

 土曜。ミニ四駆を走らせに電気屋へ行く。カップヌードル。見舞い。病院のにおい。自販機のラインナップがセンス皆無。洗濯物。ちょっとずつ生活のリズムを戻す。三十を越えてわかったけれど、睡眠は質でも量でもない。睡眠はリズムである。いつもとおなじリズム。これが枢要じゃな。

 

 日曜。あいかわらず蟷螂の餌獲りに拘泥している。しかし蟷螂の図体にたいして虫籠のちいさきことはなはだしい。してからに、ちかくのビバホームなる店舗にて虫籠を新調した。

 

 見舞い。マックドナルド。混雑。病院が計画停電をする日だった。12時にはエレベが停まるというので、余裕をもって移動していたにもかかわらず、肝心のエレベが待てど暮らせどちっとも来ない。そのうち12時になり、ざんねんでしたーってなかんじかい。いや、みんな切れてたぜ?

 

 けっきょく階段で五階まであがる。徒歩よりもうでける。まだ五階でよかったよ。しかし、そこでさらなる試練が待ち受けているとは、このとき微塵もおもわなかったのである。ってまぁいろいろあったけど持ち前のラッキーで切りぬけた。とにかく総合病院だいきらいです。

 

 夜。母が来たので家の説明をする。ただの家事。正直、おれは家事が苦ではないので、そんなことで恩を着せたような雰囲気をだされるのも癪である。まぁそのへんは意を汲んでやろうとおもう。

 

 おめでとう、と云われるとすこし恥ずかしい。これからやっていけるのだろうか。そういう不安がめっちゃある。生活のなかで命を産みだれかの為に働く。生きるってたいへんだよ。

アブノーマルが足りなくない?

 む。

 

 とか書くことねぇから書いてみたりして。なんかそういう現代詩を谷川俊太郎が書いてねぇっけ? たしかあれは「ぬ」だったような。「ぬ」とか書いてみて「ぬ」はあるけど、それを消しゴミで消してみると「ぬ」はなくなって、でも「ぬ」と書いた事実は消えないみたいなやつ。なんかそういうのうるせぇね。

 

 ちょっと傷つくことがあった。かなしい。どれくらい悲しいのかを身体で表現するとこんな感じ。ね? ほら。こんなに。こんなになっちゃってる。どうよこれ?

 

 昨日、妻が検診だった。もうおなかの子は2800グラムあるから安静は解除されて、これからはどしどし動いてください的なかんじになった。病院から歩いて帰ったらしい。そんなことより風呂あらってほしい。

 

 居間にアコギを飾っている。壁掛けにしている。それについて妻からクレームがついた。くしゃみをするとギターが「ふぁあん」と共鳴するのが気になるらしい。とても鳴りのよいギターです。でも一万二千八百円成。

 

 ウォーキングデッドのシーズン8がつまらなくて頓挫した。そのかわりにバキをみたり、アニメのピンポンみたりしてる。おれはさいきんユニコーンガンダムを見始めた。ファンネル乗っ取っちゃうのずるくね? 意外と評価のよいエイジもみてみたい。

 

 息子がミニ四駆がほしい、とか言い出した。リバイバルだー。おれもほしい。クルマでちょっと行った家電量販店にミニ四駆のコースがあるらしいのでこんど行ってみようとおもう。

 

 いつまにやらビートルズの「レットイッチビー」がネイキッド版でアップルミュージックに配信されていた。やっぱこっちだよ。オリジナル版、つってもおれのなかではネイキッドのほうがオリジナル版なのだけれど、きっと街談巷説ではあのフィルスペクターのぼんやりとした盤のほうをオリジナルとする向きがるとおもうので、ちょっと鬱屈するけど、そっちをオリジナルと本稿では定義する、なんて書いてみたけれど、オリジナル版は微妙だとおもう。ネイキッドはすっきりしてるよ。すごくいい。

 

 さいきんずっとお腹いたい。風邪? ストレス? たぶんマジもんの病気だとおもう。ボウイの「ヒーローズ」と「ハンキードリー」と「ダイヤモンドドッグズ」を聴いた。やっぱかっこいいね。あとはマウンテンをよく聴いている。おれのなかでピッキングハーモニクスといったらレズリーウェストです。ふつうの日記。

GLAY「HOWEVER」の二番のサビで盛り上がる夫婦

 ビートルズに「ヘルプ」という曲があって、出張なんでも鑑定団のテーマとして使われていることで有名だけれども、これがいい曲なんですよ。ご存知?

 

 ビートルズの曲はサビからはじまることがおおい。それはおそらく曲のパンチ力を意識したがためだとおもわれる。やっぱいきなりサビが来ると「うわ!」っておもうじゃないですか。しかもサビからだから「声」ではじまるんですね。おれはすごく斬新だとおもう。オルタナだよ。

 

 で、ヘルプも声からはじまるんですけど、問題はそのサビが終わったあとのAメロですよ。これがまたメロとコーラスのポリフォニーが素敵なのですな。しあわせな旋律の交じり合いです。

 

 で、そのAメロのコーラスなのですけれど、なんとこれ主旋律よりも先に歌われるんですね。ジョンが「When I was younger, so much younger than today」のまえにポールとジョージのコーラス「When~」が飛び出してるのです。

 

 す、すごくないですか? おれはいつ聴いてもここで「まじかー」となるのである。おそらくクラシックのような古典では、こういう弱い副メロから立ち上がるような強い主旋律! みたいな置き方はあるのだろうけれど、今おれが論じているのは一介のポップソングなわけであって、おれなんかはどんなに脳漿を搾ったって「よし! コーラスを先に歌わせちゃおう」なんて発想は出てこないのである。かなしい才能だよ。

 

 ほいで、なんぜそんなビートルズを引き合いにだしたのか、というと昨晩、風呂を洗浄するさいの鬨の声、ってゆうかファイティングマーチとして曲を選ぶのだが、「さて、今宵はどんな名曲が飛び出すのでしょうか」なんつって、全国五万人の視聴者からえらばれた曲が、なんとグレイ珠玉の名曲「ハウエバー」だったからである。

 

 すごくいい曲。すごくいい曲にはひとをボーカルにさせる能力があって、おれはこれを聴くたんびにテルになってしまう。あとウインターアゲインもそう。ってゆうかグレイはだいたいテルになる。

 

 で二番のサビ。ここがすごい。だってサビの頭二小節を歌わない。コーラスオンリーなのである。フーウーウウウー。だけ。え? まじ? 一番のサビでは「絶え間なく注ぐ愛の名を永遠と呼ぶことができたなら」ってあるのだけれど、ニ番は「孤独を背負う人々の群れに佇んでいた」ですよ。つまり、これは一番でいえば「永遠と呼ぶことができたなら」のぶぶんのみであって、一番であれだけ盛り上がりをみせた超強いメロディ「絶え間なく注ぐ愛の名を」のぶぶんをたやすく捨てたのである。

 

 なんなんだタクロー。おまえマジでなんなんだよ。それとも佐久間のアレンジですか? ビートルズはコーラスを飛び出させて主旋律を強調したけれど、グレイはコーラスのみにすることでなくなった主旋律を水際立たせてしまった。

 

 音楽の基本として、曲になにかを「足す」よりも「引く」ほうがインパクトがある。それの最たるものであるとおもう。

 

 そんなことをおもって二番のサビが「フーウフウウー」とはじまったとき、おれはおもわず「ここだよ!」なんて口吻熱く口走ってしまったのだが、どうじに妻も「ここだよ!」と雷鳴のような鋭い声をあげていたのである。

 

 なんてすてきなダブルトラック。ビートルズは声に厚みをもたせるために、おなじメロディーを同じように歌って録音し、ふたつのボーカルトラックをレコードに吹き込んでいるんですけれども、そんな感じのダブルトラック的な現象であった。

 

 という、ビートルズで始まり、ビートルズで締めくくるという、まるで「ハウエバー」が「やわらかな風が吹くこの場所で」ではじまり「やわらかな風が吹くこの場所で」で終わるような、そんなかんじじゃないですか? どうなんですか? この日記?

 

笑った顔がせつなくて

 曇っていた。しかし晴れがましい気持ちというか、光明が差し込むような気持ちになれたのは、三歳児から四歳児への過渡日であったからである。

 

 ナックルコングというゴリラ型ゾイドドラえもんのパズルでパニックという玩具を用意していた。朝覚醒し、階下に下りるとソファの上に見覚えのない物体Xがある。それはピッシリ整然とした包装紙にくるまれた箱であって、そのことの真相は彼へのプレゼントであると、須臾の間に判然とする物体である。

 

 ゾイドは組み立てではなく復元させる。それをやるのはイッツミー。起きぬけの呆然たる頭脳で「復元の書」の解読を試みるも、なかなか難儀するし、あとあれだ、手元が覚束ないというか、うまく指の神経に脳からの命令が届いていない感じがするのである。

 

 それで漸く復元せしめたナックルコング。なかなか好い感じだった。ただ少年の玩具としてナックルコングはあつかいにやや艱難するというか、けっこう上級者向けなかんじがするのである。

 

 ちなみにこれはアマゾンではなく、有楽町のビックカメラにて購入した。アマゾンだと定価より1200円も高いのである。ふだん不精なおれでも、なぜだか金銭面にかぎると奇妙な向上心に駆られてしまうので、ってゆうか職場は新橋だし、帰路の途次、購入しに向かったのである。

 

 ここで有楽町のビックカメラについての考察というか、おもったことを書いてしまうと、この土日のことがままならなくなるので、ちょっとそのことは書かないでおこうとおもったけれども、でもそうして思いを熟成させると、冷蔵庫の奥で腐ってしまう食品のようにただ捨てるだけになってしまうので、なんだか勿体ないのだけれど、仕方ないとおもう。いやあそこは魔窟ですよ、とだけ記載したい。

 

 朝メシはナックルコングの関係もあって、肉まんですました。昼餉はなに食ったっけ? あれだ! ココス! ココスに参った。写真も撮ったよ。ココスのメニューが刷新されみにくくなった。で夜は手巻き寿司を食べた。

 

 わがままなあまったれだとおもう。おれが比較的体育会系の根性主義なのでときおり頭にくることもあるが、まぁでもやっぱかわいいよ。あとおもしろい。三歳、四歳くらいの子どもっておもしろいよ。まぁ自分の子だからそうおもうのだけれど。

 

 けっこうアクティブなキッズなので外で遊びたがる。んで日曜、ちかくの畑で蜻蛉や飛蝗を生け捕りにしたりした。あとお庭でご飯を食べた。ちょっとしたポータブルテーブルを購入したので、お庭でランチってのも小粋だとおもったのである。あとイスも家族ぶんそろえたしね。

 

 庭でランチってのがとくに心象深く残っている。なんだか気持ちがよかった。雲のおおい日で、合間に蒼穹もみえたけれど、ときどき雨もパラついた。まぁ気にならない程度である。

 

 庭でバーベキュウってのもいいね、なんて相談もして、でもそんなことをして近隣の住人に殺害される事件が世間を騒がせたこともあったので、ちょっと怖いね、ってなった。

 

 もうすぐ次男も生まれそう。ってなって今、おれは「次男」と打って、ちょっと慄いたというか、もうすぐ生まれちゃうんだ、とびっくり。ってゆうか名前決めねぇと、っておもって、さいきんはパソコンの前に座ると、姓名判断のサイトにおもいついた漢字を打つ日々である。仕事は?

 

 いちごとバジルのプランターを移動せしめると、なぞの幼虫がおれの許可もなく住みすいていた。おれの土地やぞ。とおもって、でもこの乾坤に境界線をひき、所有権を発生させるなんて、なんという行為なのだろう、地球はみんなのもの。治しかたがわからないならこれ以上壊さないでください! って叫び、おれと息子は幼虫をオイコスの容器に入れて保存した。

 

 ツイッターオイスカルメイツを懐かしんだので、聴こうとおもったらなぜだかポットショットを聴きだしてしまい、息子と踊って心を解放した。こんな日々がいつまでも続けばと。

音楽作ってるときがいちばん楽しい

 アイフォンにガレージバンドというアプリがはいっている。すこし前、これでよくデモ音源を作っていた。通勤中にドラムいぢったり、ピアノでメロつくったりできるし、竿モノをアイリグというメカに接合し、アイリグをアイフォンに接合することによって、ダイレクトボックスの役割を果たし、ガレージバンド内に竿モノから撥弦されたエネルギーを波動として記録できるので、それを編集するのがたやすかったからである。

 

 めっきりバンド活動もしなくなったため、このアプリほぼ使っていなかった。いや、たまに自分の曲を聴いて、かっけぇ! ってなって、やっぱおれって才能あんじゃんとかおもったりすることもあったけれども。

 

 ギターを弾くことも少なくなった。週末は子どもと遊んでいることが多いし、帰宅後は妻と海外ドラマや映画をみることで時間がつぶれる。あとまぁ家事だよ家事。生きるということは連続的な家事をいかにいなしていくかである。めんどい。

 

 そいでこないだ、ひさびさにガレージバンドを起動させてみた。アコギでてきとうに四小節のバッキングトラックをつくって、ループさせ、ブルートゥースでスピーカーに飛ばし、それに合わせて適当にギターを弾いてみたのである。

 

 すごく楽しかった。ぜんぜん弾けなかったけど。なんかガレージバンドのループがうまい具合繋がらなくてやきもきしたけれども、つたないスリーフィンガーの、ぽろぽろと零れおちるアルペジオ。それを縫うようにアドリブっぽいソロを当てていくだけなのだけれど、やっぱ楽しい。たったこれだけのことなのに、なんだか「なにかを生み出している」感があった。

 

 むかし「音楽とは擬態である」となにかの読み物にあった。ミンストレルショーからはじまるそれはやはり白人による黒人の模倣、つまり擬態である、と。だから要するに音楽、ショウビズというのは「なにものかになりきる」ことが枢要なのだ、と。

 

 なんだかこうして音を重ねていくだけの行為であっても、なにかを生み出せる超すごいひと、みたいな「なりきり」感があった。となりで妻がスマホをいぢっていたのだが、ここぞとばかりにおれは「おれ今アーティスト活動中だから」感をアピールしたくなったりもした。

 

 やっぱり音楽を作っているときがいちばん楽しい。こんな簡単なやつだけで音楽を作るなんていうのも正気の沙汰ではないけれど、そうおもった。もうちょっといろんなスケールとか覚えようかな、なんておもった。

冷えたマーガリンを塗ろうとして食パンがズタズタになったことがある

 ちょっと恥ずかしいことなのだけれど、政治的なことにまったく興味がない。澁澤龍彦が「たった一日の選挙日だけで政治にかかわった気になっているのは馬鹿じゃん」みたいなこと書いていて、うわ、このひと性格わるっ! とおもったのが原因かもしれない。

 

 つまりおれは右でも左でもなく、アベでもトランプでもない。ただの望月である。三十二歳。だから常にフラットな場所にいる。フラット望月32。しかし、なんの政治的な介入もないくせに、なぜだか拙宅では、フジテレビを見る機会が減ったのである。なぜじゃ。

 

 そんなフジテレビと久闊を叙した。エンゲイグランドスラム2018というテレビジョン放送を観賞したのである。これはいつの話しじゃ。

 

 おもしろかった。めっちゃながかったけど。妻と観賞したのだが、おれも妻もコントよりは漫才が好きで、THEマンザイは観るけれどキングオブコント観ない、という家庭的方針があるのだが、ハナコというトリオがキングオブコントで優勝したことはネットでみて知っているし、エンゲイグランドスラムにも登場していて、観てみたところ、これがとてもおもしろかった。コントで言えばバイきんぐも東京03もおもしろかった。

 

 つうか、きほんてきにみんなおもしろかった。「よくやった」と言いながら百円ずつさしあげたい。そのなかで、今回いちばん心にきたフレーズは、ハライチの「冷えたマーガリンを塗ろうとして食パンがズタズタになることがある」である。

 

 やっぱあるあるネタはおもしろいよねーってなりますね。ってゆうか、いままで誰しもが言葉にしてこなかった「ちょっとした苦悩」みたいなものを世界に顕在化させる能力というのは、すごくすごいとおもう。すごくすごい。おれもあるもん、冷えたマーガリンを塗ろうとして食パンがずたずたになったこと。

 

 さいきんテレビレコーダーを新潮したので、たくさんテレビを録画して観ている。おっと、誤字ですね。新潮ではなく新調です。政治に興味はありませんので。

普通の日々よ

 ふつうに生きる。これほど難渋を極めることもないとおもう。おれも三十二年の馬齢を重ねてはいるが、今までふつうに生きれたためしがない。

 

 そんなちょっとネガティブなことを洩らすと「ふつうじゃなくたっていいじゃないか」という、ずいぶん暴力的な意見が飛びかってくるが、それはちがうとおもう。

 

 なにがちがうのかというと、貴殿のようななんとなくふつうに生きてこられた人が「ふつうじゃなくてもいい」というのは説得力に欠ける、ということであって、ふつうに生きられないひとというのは基本的に「ふつうになりたい」と懇願するものであるからである。「せめて人並みに」とおもうからである。である。

 

「ふつうじゃなくてもいい」にはけっこうポジティブなニュアンスが含まれていて、特別なあなたでいいのよ、というステラおばさんがクッキーを焼いてくれそうな、すごく慈愛にみちたフレーズであるけれども、こっちとしては「いやいやそれはふつうじゃないに一縷の希望がつまっているパターンであって、こっちはせめて周囲のにんげんとおなじスタートラインに立ちたいだけなのそれだけなの」という含意があって、希望や光がゼロ、ウルトラうばたまの闇のどん底であるわけだから、それを「そのままでいい。特別なあなたじゃないか」みたいなかんじで言われても、じゃあおまえこっちの立場になってみろよ。おまえがおれの人生を送ったら精神やられてすでに自殺してるぜ? とおもうわけですね。

 

 じゃあ、どんな言葉をかければよいのか、というと、そこはやっぱコミュの基本三大要素である同調を使用すべきで「ふつうってむずかしいよね」と言うしかアンサーは無いとおもう。

 

 だが「ふつう」になるために指を咥えてまっているほどおれは惰弱なにんげんではない。おれ、がんばる。だからさいきん、あるひとつのアクションをおこした。それはつまり、フルグラ生活をはじめたのである。

 

 フルーツグラノーラという乾燥食品には食物繊維がいっぱい詰まっており、食えばたちまちにして元気にうんこができ、健康で丈夫なボディが手に入るらしい。そして健康で丈夫なボディをもってして生きれば「ふつう」の生活が手に入るらしのである。

 

 そんな魅力的なアイテムがこの世に存在するなどちっともおもってみなかったし、そんなものは基本的に詐欺や瞞着のたぐいである、と決め付けていたのだが、いやぁ、これがどうもなかなか。いい具合に「ふつう」の生活が手にはいったのである。

 

 どんなふうに「ふつう」なのか。それはつまり、牛乳パックがいつでもすぐそこにある、ということである。

 

 ちょっと説明がひつようですね。つまり嗣子たる三歳児がこども園に通っているのですよ。すると幼稚園から出し抜けに「各家庭から牛乳パックを持参してください」と強制されることがあるのである。

 

 フルグラ生活をはじめる前までは、拙宅に牛乳パックなどなかった。牛乳を飲む文化がなかったのである。しかし幼稚園は、さも牛乳パックが各家庭には常に存在しているかのようにモノを申してくるのである。

 

 以前その「お知らせ」をうけ、おれと妻は戦慄した。手足をぶるぶると震わせながら、冷汗三斗。我が家にはそんなアイテム存在しないんですけど? どうすればいいの? 「ふつう」の御宅には牛乳パックがあるの? それが「ふつう」なの? なんてぐあいに超慄然としたのである。

 

 しかし、今はどうだ。牛乳パック。あるある。いつ何時でも牛乳パックの徴収があっても対応できる。これもフルグラ生活をはじめたたまものである。いいよね、やっぱふつうって。すばらしいよね。みなさんもフルグラ生活でふつうの日々を手に入れよう。