そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

金木犀の香りがしてたまらなくなって

 月がきれいでした。水中に墨汁をいれたような暗雲がたれこめていましたが、それが余計に月の神秘性へ之繞をかけていたようでした。虫の声がりんりんと聴こえていました。

 

 感動したのはラーメンです。国道を車でちょっと行ったところに田所商店という麺屋があります。チェーン店ですが、ファミリーでうまいラーメンを食うならここ、というような雰囲気があります。

 

 元来、味噌屋であつたやうである。中華蕎麦のつゆ、その下味としての味噌を三種選ぶところから、この味噌らあめんとの闘争ははじまつているのである。その三種は九州味噌、信州味噌、北海道味噌と南北にながい日本列島を象徴してゐる。

 

 わたしは北海道味噌をえらんだ。妻は九州味噌。おしながきを閲してみると最後のペエジに味噌のちがひが書かれていた。その記載内容にひつぱられるがごとく、北海道味噌の味はひは濃厚であったし、九州のそれはすこしく淡白でありながら切れ味の良好なものであつた。

 

 なによりも子ども用キッズプレートの味噌らあめんもうまかつた。子ども用には味噌の選択はなかつたが、子ども用として侮るなかれ、たいへんな美味であつたのだ。子ども用だからといつてないがしろにせぬ料理人の矜持を見たきがしたのだつた。

 

 なぜ旧仮名遣ひなのでせふか。というと、まぁひとことでは形容しきれぬいろんな状況、のっぴきならぬ、というか一筋縄ではいかぬ、なんてなこたぁねぇのだが、丸谷才一の「食通知つたかぶり」を読んだからである。あれおもしろかったは。

 

 たな曇りの一日でした。夕刻に近所の子どもたちが遊びにきました。たいへんかまびすしかったのですが、豚児が欣喜たる様子だったのでよかったです。どうやら、ものごとを自慢したい時期にさしかかっているようです。

 

 アコースチックギターの弦をフォスファー弦にしました。コードストロークなどせず、もっぱらフィンガーピックをしているからです。安物のギターなのですがマーチンのような凛とした響きになった気がします。こんかい細めの弦にしてみたのですが、やはりすこし太めの弦が好みです。

 

 しづかな秋の夜です。静謐でひっそりとした夜気です。妻と内村さまぁ~ずを見たりしています。ネットフリックスではバキを見ています。窓を開ければ涼しげな風がとおりすぎます。なにかが終わっていくような気配がします。笑っているのに、なぜかさびしい感じがします。

すごい歌詞とは

 すごい歌詞というのは、やはり、ふいに口を衝いて出るものなんだとおもう。そう考えると、日常に潜む抽象性や観念的な事象をば、具体性をもって表現している歌詞がすごいんじゃないかな、なんておもったりして、だからまぁなにが言いたいのかというと、昨日からちょっと寒くて、半袖じゃちょっと寒くなってきたな、なんてフレーズがぽろっと唇から漏れたのである。

 

 いわずとしれたゴーイングアンダーグラウンドの佳曲「トワイライト」の一節である。この時期になると「半袖じゃちょっと寒くなってきたな」って言いたくなる。言いたくなるというか歌いたくなる。

 

 だが、殷賑とした往来で三十二歳にもなるおっさんがひとり忽然と歌いだした場合、世間様から白眼視され、さいあくの結末としては検非違使なんかに捕縛され、精神病棟に連行後、ロボトミー手術なんかを施されかねない。拙者、じつは「カッコーの巣の上で」というムービーを拝見したことがあるのでロボトミーの危険性はうすうす勘付いているのである。

 

 そういうことでお口にチャック。なみなみならぬ忍耐で帰路についておったところ、あぁもうこんな時期なんですね、ってか気が早くないですか、ってなものであるけれど、オレンジ色したカボチャに角ばった目と口をペイントしたハロウィン仕様のバルーンが洋菓子店のまえでふらふらと風にゆられていたのである。

 

 かぼちゃのお化け。これはアンディモリというバンドが歌う「グロリアス軽トラ」の一節である。すでに口のなかは、「半袖じゃちょっと寒くなってきたな」という歌でいっぱいになっているところにつけて、「そしてかぼちゃの、おば、け」という追い込みをかけられてしまったのである。口のなかは歌で渋滞しているというのに。

 

 ゴッドタンというテレビジョンの番組で、マジ歌選手権というのを観たことがある。それは芸人が作詞作曲したマジ歌を、牛乳を口に含み観賞し、噴出さないようにする、というとてもおもしろい企画物であるが、笑いを我慢している唇にはうっすらと白い物が浮かんでいるのである。

 

 そういった感じ。今おれの唇は。口腔内は歌で充溢している。いまにも叫びだしそうなくらいパンパンに頬が膨れ上がっている。さいきんシャインマスカットといううまい葡萄を食らったのだが、その果実は果肉によって表皮をぱつんぱつんに膨らませて光沢を放っていた。そういう風采である。

 

 体内からこみ上げてくるこのすばらしい歌詞たち。とても素敵だとおもう。だが、いい歳こいたおっさんが道端で矢庭に歌い出すなんてちょっと考えられない。秋めいた夜空、雑沓のなかに溶けてゆく歌声は、きっと誰にも届かないだろうが、それは確実におれを狂人たらしめてしまう。

 

 あかんよね。それにしても秋だなぁ。マジで真夏のピークは去ったなぁ。夏の終わりだなぁ。というフレーズがダブルで浮かんできてもう駄目です。さよならベイビー。

光とか実際苦手で

 陰気に生くるよりは、サンバのリズムで陽気に生くるほうが、やっぱいいじゃん! なんてことを情理を尽くして説いてみたところで、やはり希望ではなく、比較的絶望サイドに立たされている現代ニッポンの民草は、きっと「うるせぇよ」とおもうにちがいない。

 

 じじつ、おれもそうだ。この日々に光が見つけられない。このままおめおめと生きていくことは可能だけれど、ずっとこころの空隙を寂寥で埋めるような日々をすごしていくだけなのである。ものすごく陰気である。

 

 これじゃあかんよ。マジで。このまま陰のパワーに侵されつづければ、おれにはハッピーなエンディングはおとずれない。やってこない。手に入らない。世の中には「引き寄せの法則」というものがあって、ハッピーでいるためには、ハッピーなことをしなければいけない。つまり陽気に生きたいのならば、陽気でいなければいけないのである。

 

 ということで、陽気まくりたいおれは、手ごろな陰気から抹消していくことをここに決意した。眦をキッっとね。で、手始めになにからしよっか。お、あったあった。手ごろな陰気。これじゃよ。って陰毛、ますはこれを陽毛にしたいな、と思い至ったのである。

 

 陰毛の定義というのは、いわば「隠れている」ということだとおもう。つまりおれたちのこの頭髪、これは「隠れていない」、いわば陽毛であって、逆に陰茎の上部に鬱蒼としている、ふだんはパンツのしたに隠れているものが陰毛なのである。

 

 でも、だからといって陰毛を丸出しにして往来を泰然自若に闊歩する、なんて真似は、数多のひとに言えぬようなことをしてきたおれでも、さすがに憚りごとである。法律で禁止されています。

 

 法をやぶる勇気があればいいのだが、そうもできない。あぁ、なんてこった。こうしておれはまた自分で自分の可能性を殺す。やはりおれには無理なのかもしれない。陰気な人の道を歩くしかない。おれは一生涯、陽気に生くることはできぬのである。

 

 でも、待って。これは人民が集合している往来、ショッピングセンター、駅、公共施設、飲食店などでおこなわなければいいだけであって、自分ちならば、どんなに陰毛を陽毛としてさらけ出してしても、なにも問題はないのではないか。

 

 あはは。そうじゃん。答えはけっこう簡単だった。ということで、おれは陰毛を陽毛にクラスチェンジさすべく、頭髪とどうようの待遇を処そうとドライヤーという乾燥メカを陰毛にあててみたのである。

 

 さっぱりした気持ちにはなったが、こんなことをしている自分が、なんだか恥ずかしくてたまらなくなった。あ、おれ今けっこう死にたいわ。なんて、とても陰気な気持ちになった。陽気を目指していたのに、どうしてなんだろう。

暮れ行く街のざわめきの中に立って

 どうして貧乏なんだろう。という疑問が、きっとおれを一生悩ませるのだろうけれど、そんなことばかり気にしてちゃあ、日本男児の名折れだ。そこんとこは気風よく、「カネなんてありゃあつかっちまうし、なけりゃあそれまでよ! はっはっは」なんて行きたいものですね。ほんと。もう。

 

 土曜。ってゆうか、そのまえの土曜か、もしくは日曜。拙宅のテレビジョンに接続してあるデジタルヴィデオディスクレコーダーが、なんということでしょう。故障の兆しをあらわした。録画した映像が巨大なポリゴン模様を呈したり、各種ディスクのデータを読みこもうとすると画面の暗黒からなかなかスタートしない、などの不具合が発生したのである。

 

 こまったな、これは。とおもったのは、つまり翌週の「仮面ライダービルド」の最終回が、このような悪条件の元で録画されてしまう、ということであって、そうなると、重要な場面で粗悪な画像条件をつきつけられる、という悲しい人生をおくることになりうる。こまります。

 

 ということで、カネないなぁ、とおもいながら、しかしこれは投資だ、よりよい人生を過ごすための投資だ、とおもい、約四万円という、おれの人生のなかでも、ランキング上位にやってくる途轍もない大金を消費する、そのブルーレイレコーダーというものの購入に、踏み切った、というか、ノリでアマゾンの「ワンクリックで買う」を、タップしたのである。

 

 そうして先日の土曜。それを接続せしめた。とても具合がいい。その機能に「どこでもディーガ」というのがあって、これが手元のスマホでどこからでも録画予約、そして録画したテレビジョンの内容をいつでも視聴可能らしい。未来の機能である。

 

 とても暑い日が続いている。先日、息子が庭でショウリョウバッタという昆虫を捕獲した。とても愛でていた。寵愛していた。しかし、土曜、虫籠ともに外にだしてやると、遠い空を眺めるバッタの物憂い瞳に、慈悲のこころが喚起させられたのか、「にがしてあげよう」という決断をしたのである。やさしい。

 

 そうだ。あと庭の芝刈りをした。エレキテルでうごく芝刈り道具を購入したのだが、これがいいかんじだった。しかし、日ごろの運動不足も相乗効果で、とてもつかれた。桃太郎のおじいさんは、こんなことをしに山に行くのか、とおじいさんのその屈強な肉体と精神に畏怖をいだいたが、山で芝刈りしてどないすんねん、そんなん無限に生えてくるやんか、とおもったので、アレクサ! 桃太郎のおじいさんはどうして山に芝刈りに行くの? と訊いたところ、「わかりません」と相変わらずのポンコツぐあい。やんなるね。って改めてグーグルでそれをサーチしたところ、芝刈りは「柴刈り」らしく、つまるところその柴刈りというのは、山の素材をあつめることで、その素材で籠やらなんからのクリエイティブを発揮するためらしいんですね。学問。

 

 たまねぎを浸した肉がやわらかくてうまい、という情報をゲットしたため、それを夕餉にした。うまかった。いやまぁとくに書くこともないな。翳の足がのびてゆく。日記。

なにか書かなきゃいけない、なんて焦燥感

 無為徒食だにー。の語尾「にー」について説明しようか。おれはボーンイン静岡なのだけれど、けっこうなシティ派であって、いわば政令指定都市である静岡市でグロウアップしただけん、よってきほん語尾は「ら」を利用する。ら。よって語尾に「だに」なんてつかわへんよ。ら。

 

 しかし、その遠州弁である「だに」の使い手は、静岡西部に生息しているらしい。ら。浜松だ。ら? ちなみにナチュラルシズオカンは、ってははは。シズオカンってなんですかね。なぞですね。で、渦中の静岡人は「ら」のみで会話が成立するばあいがある。「ら?」「ら」。つって「ら」にふくまれる超音波、その周波数を微量に調整することによって直接脳内に言いたいことを叩き込むのである。ら。

 

 だから、っゆうか。アハン。ほら。「だに」の説明とかなんもしてない。やば。冒頭文、うそじゃん。自家撞着じゃん。自家撞着ってつかいかたあってんの? あってぬ。ら? ら。

 

 もっとちゃんと勉強しよう。日本語とか。ってゆうか音楽のこととか。ほらモーダルインターチェンジとかさ。ね? ノンダイアトニックとか。ってミクソリディアンという語彙フレーズが一時期マイブームでした。クソだな、が口癖だったので、ミクソリディアンだな。つって。わけわかめ。訳若布。フジファブリックのStrawberry Shortcakesを聴いておもったのは、こいつはいつもシンプルなコード進行なのにすげぇむずかしい曲つくるわ、ってことで、ってかこの曲は同主音の転調とかしてるけど、これは転調ってかいわばモーダルインターチェンジなのか? まぁすごいよほんと。山内総一郎では作れない曲じゃね?

 

 ジャックジョンソンのベストがあったので聴いた。ジャックジョンソンいいね。ってゆうかこのひと、ずっとこういう音楽やってて飽きねぇのかな。おれだった発狂するわ。ジャックジョンソンは忍耐のひとですね。妻が「これジャックジョンソン?」と聴くので、蓋しそうである、と返答した。したら「あの、アメリカ人の山崎まさよしみたいなひとだれだっけ?」とか妻がいう。は? そんなひといねぇよ。いるよアメリカ人の山崎まさよしのポジションのひと。だれだよ。だからそれを聴いてるんだってば誰だってば?。語尾がナルトだよってゆうか誰だよ気になるよキニナルってば。フーンフンフンフーンって歌っぽいひとだよ。わかんねぇよ。だからそういうニュアンスの歌なんだよってゆうかおまえ何年アメリカ人の音楽聴いてるのよわかれよ。お、これは世に見る逆切れというやつですなでもわかんねぇよ。だからフーンフンフンフーンって。よけい難解になるよそこから離れてよ。だからかたっぱしからアメリカ人で山崎まさよしっぽいひとを列挙しろよギター弾いてるひとだよ。おれが知ってるアメリカ人のほとんどはギター弾いてるよ。ソロのひとだよ。わかんねぇよジョンメイヤーとか? それだ。つってジョンメイヤーは妻のなかでアメリカ人の山崎まさよしみたいなひとのようです。そのあとプリズンブレイクを観て寝ました。ら。

きみが笑えば解決することばかり

 ふざけやがって。ばかやろう。なんなんだ。この暑さは。お天気のスケジュールもむちゃくちゃじゃないか。どうかしてるぜ。あほんだら。すっとこどっこい。その他もろもろあっておれは怒りに充ちている。

 

 金曜。息子がけがを負った。幼稚園でおともだちにプッシングされたようだ。悪意のあるファウルである。はい、森田くん退場です。かなりの侵害受容であったらしく、幼稚園の教室は息子のしぼった涙と絶叫で、まったくとんでもないことになりましたな、みたいなかんじだったらしい。

 

 頭をしたたかに打ちつけたため、「頭はやべぇ」ってなって近くのクリニックに搬送された。まぁ頭というよりは眼窩にちかいこめかみで、数センチの傷はあるが、それよりも内出血がひどく、まるで試合後のボクサー、もしくはサンドイッチマンの富澤みたいな風采になっている。

 

 土曜。七夕おんがく会。息子のハレ舞台なのに顔面にはガーゼ、である。くそう。だが、さすがおれと妻の子。そんなハンデがあるにもかかわらず、舞台上でもっとも顔面の偏差値は高かった。なによりも放埓なふるまいがロックだった。

 

 場内では「カメラは目線の高さで、頭のうえにはあげないように」とアナウンスがあったにもかかわらず、あはは、馬鹿がいやがる。おれの前方にはカメラを頭上高く掲げた婆がいる。

 

 てめぇ。なんなんだ。くそか。おいこら。おれは燃えたよ。慷慨だよ。ここで婆を放って置くことは、社会の毒になる。なぜならあの婆がカメラを頭上に掲げることによって他の心無い馬鹿が「あ、あのひとカメラをあげてる。アナウンスはポーズであって、暗黙の諒解的にカメラは掲げていいんだ。子をおもう親の気持ちが勝るんだ」なんておもう兵六玉がおるかもしれんのだ。あかんよこれは。しかも婆は前のほうの席だ。みんなの邪魔にもなる。

 

 だが、むような軋轢を生じさせて疲弊することは良くない。しかも妻の談によれば、あの婆の横に座しているのは幼稚園のクラスの役員長であるらしい。つまりあの婆はクラス役員長の母であり、ここで婆を叱責することによって、おれは、っちゅうかおれの息子はもしかしたら幼稚園で村八分にされる可能性だってあるのだ。

 

 しがらみである。世の中に黙しておったほうがよいこともある、なんてことであるけれども、それもこれもしがらみのせいである。世界はそういった「正しい行いが間違いである」場合がある。そんな世界のムードはおれのハートに余計に火をつけるぜ。おれはアイフォンでグーグルをひらき「呪い 方法」と「暗殺 相場」をサーチングした。

 

 でも、そんなときでも、息子は笑っていた。かわいかった。紅顔の美少年。舞台のうえから、おれと妻を発見したようで、莞爾とした。大きなこえで歌をうたっていた。振り付けはあいまいであったし、カスタネットも両手をつかって鳴らすのではなく、片手のみで、手首のスナップをきかせ、遠心力を利用し、それを鳴らしていた。

 

 常識では考えられないカスタネットの鳴らし方と、その笑顔のパワーによって、おれはまるで去勢された猫のように、この世の怒りなど、どうでもよくなってしまった。

 

 日曜。夏祭りの甚平を購入するため、アーンド仮面ライダーの映画前売り券をゲットするために、ちかくのショッピングモールへ参った。前売り券は前日より発売していたが、おんがく会、けがによるクリニック通院により、ひとあし遅かった。というのは前売り券に付属するはずの特典が終了してしまっていたのだ。

 

 ツイッターなどの情報によると、転売目的であったり、コレクションのために大人が買い占める、などの行為によって即売したそうだ。子どもに渡してやれよ……ともおもったが、子どもは遊んだらすぐ飽きる。たぶんモノとしてだいじにするのは大人のコレクターだろう。だから、まぁしゃあねぇか、みたいなかんじにはなったが、がんらいの目的はちがうんじゃねぇのか? みたいな気分にもなってどうも釈然としなかった。転売は赦すまじ。

 

 だが、その日も息子はよく笑っていた。玩具屋でぐずりもした。けれどわらっていることがおおかった。たのしかったのだ、とおもいたい。一緒にあそんでいると、稚気にみちた、頑是無いはしゃぐ笑い声を発していて、はまりこんだ憂き目など、もう忘れてしまうほどであった。

 

 よく笑う子になってくれた。かれの天性もあるだろうが、たぶん妻のおかげ。へらへらしていることもあって、どうしようもねぇすっとこどっこいだけれど、どんな怒りも悲しみも、恨みも、妬みも、君が笑えば解決することばかりだ。

おれはそんなに音楽が好きじゃないのかもしれない

 いとよんどころのない事由によって音楽を聴くことも憚られた。刑務所にはいっていたわけではない。でも、なぁおまえ、ちょっと痩せたんじゃないか……? てなかんじで痩せたかもしれない。おい……ちゃんと食ってるのか? かあさんはどうしてる? 元気してるか? とうさんのことでいじめられてないか? もうすぐここから出られるからな、ってもうなんだかよくわかりませんな。

 

 聴くものがない。そりゃきっと探究心をもっていさえすれば聴くものなんてすぐみつかる。ただなんとなく音楽を聴く気になれなかったのだ。おれはたぶん音楽がそんなに好きなんじゃないとおもう。

 

 で、なんとなく「サカナクションでも聴いてやるかーしかたねー」とおもって聴いた。ベスト盤である。一曲目が新宝島という曲で、これにびびった。めっちゃええやん。とおもった。

 

 おれは血の気のかよった生生しいバンドを好むので、デジタル化された記号のミュージックを牽制していた。サカナクションといえばその代表格であり、さらにたしか山口一郎はレーベルの音楽学校出じゃねぇっけ? なんだよレーベルのパワーで出てきたのかよ。広告費すげーぜ。とおもってちょいとネットを探索してもそういう情報は出てこない。あれはおれの夢だったんか?

 

 まぁええやん、そんなん。って新宝島かっこよかった。おれはやはりディミニッシュやオーギュメントみたいな全三音にこころを打たれる。たぶんこの新宝島もベースがオンコで全三音を引いていて、ゆえにサビがめっちゃ気持ち悪い。そこが悶えるほどにかっこいい。帰宅時に聴いていたのだけれど、この一曲でほとんど時間が潰れた。

 

 そういえば、さいきん星野源のエピソードというアルバムも聴いた。湯気という曲があるのだけれど、この一音目もおそらく全三音のオンコだろう。くっそ気持ち悪い。こういうの流行っているのだろうか。底意なく、まじで好き。

 

 ちなみにおれがオーギュメントと意識したのはバインの風待ちという曲で、サビの二個目にたしか使われている。ここがくっそかっこいい。まじ。田中エロい。まじ。化身。なしくずしの愛ってセリーヌの引用だったと気がつきさらに神感をいだく。余談。

 

 そういうふうな違和のある音階が流行りきったら、こういうのが当たり前になるのだろうか。そしたらまた新しい音の当て方が出てくるのだろうか。おれは西洋音楽に毒されているのでオクターブを十二音階の全体主義をとおしているが、インドでは二十二音階ある、という風説を聴いた。さすがインド人。掛け算得意なだけあるぜ。

 

 きっとおれはそれを音痴だとおもうだろう。微分音階。いやでも、ベンドって微分音階だもんな。はは。かっこつけてベンドと書いた。いつもはふつうにチョーキングといいます。そこに弦楽器のあいまいさがあって、音痴、おれはすげぇ好きだな。

 

 音痴といえばおれはリズム音痴でリズムがうまく読めない。でもバンプのコスモノートというアルバムはいいね。ってモーターサイクル。これむずかしい。ポリリズムでずらしてくる。さらにそのずらしをシンコペーションでメロ入れてくるから余計ややこしい。このアルバムはまじで聴くたびに発見があるからすげぇ。もちろんほかもすごいとおもうよ。ファイアーフライはまだ聴いてないのでアマゾンで発注した。たのしみ。

 

 でもやっぱまっすぐなバンドが好きだ。さいきんオーウェルズというアメリカのバンドと、ヴァントというイギリスのバンドを聴いた。これがもうほんとなんてのてらいもなくてかっこよかった。オーウェルズはさいしょイギリスのバンドだとおもったほど音が湿っていた。けどどこかかろやかな馬鹿ぽっさがあってそこはアメリカンだった。両者ともにパンキッシュでエモ系オルタナ寄りのガレージロック。

 

 チャットモンチーの新しいのを聴こうとおもって未だ聴いていない。未遂に終わっている。そうそう、そういえばはじめてストラッツというバンドを聴いたのだけれどくっそよかった。ボーカルに説得力があるし、ロックの抱くエンタメ性と非商業性の矛盾を「カンケネー」つってエンタメ性にわりふった潔いバンドだった。あとギターもこれじつはめっちゃうまいとおもう。音の繋ぎ方がすんばらしい。ライブ動画もレスポールジュニアの音がこれぞ! という音してた。ひさびさに嵌った。これは改めて日記に書くかもしれない。

 

 ってゆうかこれこそメインブログに書くべき内容なんじゃなかろうか? という疑問もあるけれど、まぁいいじゃない。ってそういうかんじです。だれかなにかいい音楽教えてくれよ。