そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

なにか書かなきゃいけない、なんて焦燥感

 無為徒食だにー。の語尾「にー」について説明しようか。おれはボーンイン静岡なのだけれど、けっこうなシティ派であって、いわば政令指定都市である静岡市でグロウアップしただけん、よってきほん語尾は「ら」を利用する。ら。よって語尾に「だに」なんてつかわへんよ。ら。

 

 しかし、その遠州弁である「だに」の使い手は、静岡西部に生息しているらしい。ら。浜松だ。ら? ちなみにナチュラルシズオカンは、ってははは。シズオカンってなんですかね。なぞですね。で、渦中の静岡人は「ら」のみで会話が成立するばあいがある。「ら?」「ら」。つって「ら」にふくまれる超音波、その周波数を微量に調整することによって直接脳内に言いたいことを叩き込むのである。ら。

 

 だから、っゆうか。アハン。ほら。「だに」の説明とかなんもしてない。やば。冒頭文、うそじゃん。自家撞着じゃん。自家撞着ってつかいかたあってんの? あってぬ。ら? ら。

 

 もっとちゃんと勉強しよう。日本語とか。ってゆうか音楽のこととか。ほらモーダルインターチェンジとかさ。ね? ノンダイアトニックとか。ってミクソリディアンという語彙フレーズが一時期マイブームでした。クソだな、が口癖だったので、ミクソリディアンだな。つって。わけわかめ。訳若布。フジファブリックのStrawberry Shortcakesを聴いておもったのは、こいつはいつもシンプルなコード進行なのにすげぇむずかしい曲つくるわ、ってことで、ってかこの曲は同主音の転調とかしてるけど、これは転調ってかいわばモーダルインターチェンジなのか? まぁすごいよほんと。山内総一郎では作れない曲じゃね?

 

 ジャックジョンソンのベストがあったので聴いた。ジャックジョンソンいいね。ってゆうかこのひと、ずっとこういう音楽やってて飽きねぇのかな。おれだった発狂するわ。ジャックジョンソンは忍耐のひとですね。妻が「これジャックジョンソン?」と聴くので、蓋しそうである、と返答した。したら「あの、アメリカ人の山崎まさよしみたいなひとだれだっけ?」とか妻がいう。は? そんなひといねぇよ。いるよアメリカ人の山崎まさよしのポジションのひと。だれだよ。だからそれを聴いてるんだってば誰だってば?。語尾がナルトだよってゆうか誰だよ気になるよキニナルってば。フーンフンフンフーンって歌っぽいひとだよ。わかんねぇよ。だからそういうニュアンスの歌なんだよってゆうかおまえ何年アメリカ人の音楽聴いてるのよわかれよ。お、これは世に見る逆切れというやつですなでもわかんねぇよ。だからフーンフンフンフーンって。よけい難解になるよそこから離れてよ。だからかたっぱしからアメリカ人で山崎まさよしっぽいひとを列挙しろよギター弾いてるひとだよ。おれが知ってるアメリカ人のほとんどはギター弾いてるよ。ソロのひとだよ。わかんねぇよジョンメイヤーとか? それだ。つってジョンメイヤーは妻のなかでアメリカ人の山崎まさよしみたいなひとのようです。そのあとプリズンブレイクを観て寝ました。ら。

きみが笑えば解決することばかり

 ふざけやがって。ばかやろう。なんなんだ。この暑さは。お天気のスケジュールもむちゃくちゃじゃないか。どうかしてるぜ。あほんだら。すっとこどっこい。その他もろもろあっておれは怒りに充ちている。

 

 金曜。息子がけがを負った。幼稚園でおともだちにプッシングされたようだ。悪意のあるファウルである。はい、森田くん退場です。かなりの侵害受容であったらしく、幼稚園の教室は息子のしぼった涙と絶叫で、まったくとんでもないことになりましたな、みたいなかんじだったらしい。

 

 頭をしたたかに打ちつけたため、「頭はやべぇ」ってなって近くのクリニックに搬送された。まぁ頭というよりは眼窩にちかいこめかみで、数センチの傷はあるが、それよりも内出血がひどく、まるで試合後のボクサー、もしくはサンドイッチマンの富澤みたいな風采になっている。

 

 土曜。七夕おんがく会。息子のハレ舞台なのに顔面にはガーゼ、である。くそう。だが、さすがおれと妻の子。そんなハンデがあるにもかかわらず、舞台上でもっとも顔面の偏差値は高かった。なによりも放埓なふるまいがロックだった。

 

 場内では「カメラは目線の高さで、頭のうえにはあげないように」とアナウンスがあったにもかかわらず、あはは、馬鹿がいやがる。おれの前方にはカメラを頭上高く掲げた婆がいる。

 

 てめぇ。なんなんだ。くそか。おいこら。おれは燃えたよ。慷慨だよ。ここで婆を放って置くことは、社会の毒になる。なぜならあの婆がカメラを頭上に掲げることによって他の心無い馬鹿が「あ、あのひとカメラをあげてる。アナウンスはポーズであって、暗黙の諒解的にカメラは掲げていいんだ。子をおもう親の気持ちが勝るんだ」なんておもう兵六玉がおるかもしれんのだ。あかんよこれは。しかも婆は前のほうの席だ。みんなの邪魔にもなる。

 

 だが、むような軋轢を生じさせて疲弊することは良くない。しかも妻の談によれば、あの婆の横に座しているのは幼稚園のクラスの役員長であるらしい。つまりあの婆はクラス役員長の母であり、ここで婆を叱責することによって、おれは、っちゅうかおれの息子はもしかしたら幼稚園で村八分にされる可能性だってあるのだ。

 

 しがらみである。世の中に黙しておったほうがよいこともある、なんてことであるけれども、それもこれもしがらみのせいである。世界はそういった「正しい行いが間違いである」場合がある。そんな世界のムードはおれのハートに余計に火をつけるぜ。おれはアイフォンでグーグルをひらき「呪い 方法」と「暗殺 相場」をサーチングした。

 

 でも、そんなときでも、息子は笑っていた。かわいかった。紅顔の美少年。舞台のうえから、おれと妻を発見したようで、莞爾とした。大きなこえで歌をうたっていた。振り付けはあいまいであったし、カスタネットも両手をつかって鳴らすのではなく、片手のみで、手首のスナップをきかせ、遠心力を利用し、それを鳴らしていた。

 

 常識では考えられないカスタネットの鳴らし方と、その笑顔のパワーによって、おれはまるで去勢された猫のように、この世の怒りなど、どうでもよくなってしまった。

 

 日曜。夏祭りの甚平を購入するため、アーンド仮面ライダーの映画前売り券をゲットするために、ちかくのショッピングモールへ参った。前売り券は前日より発売していたが、おんがく会、けがによるクリニック通院により、ひとあし遅かった。というのは前売り券に付属するはずの特典が終了してしまっていたのだ。

 

 ツイッターなどの情報によると、転売目的であったり、コレクションのために大人が買い占める、などの行為によって即売したそうだ。子どもに渡してやれよ……ともおもったが、子どもは遊んだらすぐ飽きる。たぶんモノとしてだいじにするのは大人のコレクターだろう。だから、まぁしゃあねぇか、みたいなかんじにはなったが、がんらいの目的はちがうんじゃねぇのか? みたいな気分にもなってどうも釈然としなかった。転売は赦すまじ。

 

 だが、その日も息子はよく笑っていた。玩具屋でぐずりもした。けれどわらっていることがおおかった。たのしかったのだ、とおもいたい。一緒にあそんでいると、稚気にみちた、頑是無いはしゃぐ笑い声を発していて、はまりこんだ憂き目など、もう忘れてしまうほどであった。

 

 よく笑う子になってくれた。かれの天性もあるだろうが、たぶん妻のおかげ。へらへらしていることもあって、どうしようもねぇすっとこどっこいだけれど、どんな怒りも悲しみも、恨みも、妬みも、君が笑えば解決することばかりだ。

おれはそんなに音楽が好きじゃないのかもしれない

 いとよんどころのない事由によって音楽を聴くことも憚られた。刑務所にはいっていたわけではない。でも、なぁおまえ、ちょっと痩せたんじゃないか……? てなかんじで痩せたかもしれない。おい……ちゃんと食ってるのか? かあさんはどうしてる? 元気してるか? とうさんのことでいじめられてないか? もうすぐここから出られるからな、ってもうなんだかよくわかりませんな。

 

 聴くものがない。そりゃきっと探究心をもっていさえすれば聴くものなんてすぐみつかる。ただなんとなく音楽を聴く気になれなかったのだ。おれはたぶん音楽がそんなに好きなんじゃないとおもう。

 

 で、なんとなく「サカナクションでも聴いてやるかーしかたねー」とおもって聴いた。ベスト盤である。一曲目が新宝島という曲で、これにびびった。めっちゃええやん。とおもった。

 

 おれは血の気のかよった生生しいバンドを好むので、デジタル化された記号のミュージックを牽制していた。サカナクションといえばその代表格であり、さらにたしか山口一郎はレーベルの音楽学校出じゃねぇっけ? なんだよレーベルのパワーで出てきたのかよ。広告費すげーぜ。とおもってちょいとネットを探索してもそういう情報は出てこない。あれはおれの夢だったんか?

 

 まぁええやん、そんなん。って新宝島かっこよかった。おれはやはりディミニッシュやオーギュメントみたいな全三音にこころを打たれる。たぶんこの新宝島もベースがオンコで全三音を引いていて、ゆえにサビがめっちゃ気持ち悪い。そこが悶えるほどにかっこいい。帰宅時に聴いていたのだけれど、この一曲でほとんど時間が潰れた。

 

 そういえば、さいきん星野源のエピソードというアルバムも聴いた。湯気という曲があるのだけれど、この一音目もおそらく全三音のオンコだろう。くっそ気持ち悪い。こういうの流行っているのだろうか。底意なく、まじで好き。

 

 ちなみにおれがオーギュメントと意識したのはバインの風待ちという曲で、サビの二個目にたしか使われている。ここがくっそかっこいい。まじ。田中エロい。まじ。化身。なしくずしの愛ってセリーヌの引用だったと気がつきさらに神感をいだく。余談。

 

 そういうふうな違和のある音階が流行りきったら、こういうのが当たり前になるのだろうか。そしたらまた新しい音の当て方が出てくるのだろうか。おれは西洋音楽に毒されているのでオクターブを十二音階の全体主義をとおしているが、インドでは二十二音階ある、という風説を聴いた。さすがインド人。掛け算得意なだけあるぜ。

 

 きっとおれはそれを音痴だとおもうだろう。微分音階。いやでも、ベンドって微分音階だもんな。はは。かっこつけてベンドと書いた。いつもはふつうにチョーキングといいます。そこに弦楽器のあいまいさがあって、音痴、おれはすげぇ好きだな。

 

 音痴といえばおれはリズム音痴でリズムがうまく読めない。でもバンプのコスモノートというアルバムはいいね。ってモーターサイクル。これむずかしい。ポリリズムでずらしてくる。さらにそのずらしをシンコペーションでメロ入れてくるから余計ややこしい。このアルバムはまじで聴くたびに発見があるからすげぇ。もちろんほかもすごいとおもうよ。ファイアーフライはまだ聴いてないのでアマゾンで発注した。たのしみ。

 

 でもやっぱまっすぐなバンドが好きだ。さいきんオーウェルズというアメリカのバンドと、ヴァントというイギリスのバンドを聴いた。これがもうほんとなんてのてらいもなくてかっこよかった。オーウェルズはさいしょイギリスのバンドだとおもったほど音が湿っていた。けどどこかかろやかな馬鹿ぽっさがあってそこはアメリカンだった。両者ともにパンキッシュでエモ系オルタナ寄りのガレージロック。

 

 チャットモンチーの新しいのを聴こうとおもって未だ聴いていない。未遂に終わっている。そうそう、そういえばはじめてストラッツというバンドを聴いたのだけれどくっそよかった。ボーカルに説得力があるし、ロックの抱くエンタメ性と非商業性の矛盾を「カンケネー」つってエンタメ性にわりふった潔いバンドだった。あとギターもこれじつはめっちゃうまいとおもう。音の繋ぎ方がすんばらしい。ライブ動画もレスポールジュニアの音がこれぞ! という音してた。ひさびさに嵌った。これは改めて日記に書くかもしれない。

 

 ってゆうかこれこそメインブログに書くべき内容なんじゃなかろうか? という疑問もあるけれど、まぁいいじゃない。ってそういうかんじです。だれかなにかいい音楽教えてくれよ。

父の日参観にいってかんじた才能

 過日。日曜。朝。サ~ンデ、モニン。ってのはベルベットアンダーグラウンドアンドニコ。サンデーモーニン、ディアマイフレンッ! ってのはくるり岸田繁は逆から読んでも岸田繁、になりそうでぜんぜんならない。そんな「けだまだらけ」みたいな存在。

 

 三歳児がやっかいになっている幼稚園にて、父親参観日が開催された。快哉をさけび参観した。天には雲がたれこめていて、重苦しい光のなかであったが、三歳児にはそんなことは無縁であった。いっぽうおれは扁桃腺炎で高熱にうかされ、まるでひさしぶりにやったバイオハザードのような操作のしにくい身体をもち、なんども場面をいったりきたりしていた。

 

 まずはクラスに輻輳しごあいさつをした。そして「あさのうた」をうたう。せんせいおはよー、みなさんおはよー。おはなもにこにこわらあっています。おーはよ、おはよー。文字にすれば稚気にみちているが、鼓膜をつんざく大絶唱であった。大気のびりつく振動。天然のディストーションがそこにあった。

 

 先生のほうを向いて座することを、おへそすわり、というらしい。三十一歳は学問した。そうして先生が講壇しているとき、雇われカメラマンが闖入してきた。かれがフラッシュを焚くたび、おれの息子が「うっ…」とか「ぎゃっ…」とか「あぅ…」とかうめきながら、えびぞる。彼は撃たれていたのだ。フラッシュに。そんな被弾を、ただひとり繰り返している息子に諧謔の才をかんじた。

 

 ひととおりクラスでの騒乱がおわったあと、各部屋にてさらなる擾乱があった。ディズニー体操をする息子は、この地球上のすべての哺乳類の嬰児における「愛らしさ」を抽出したって比することのできぬ、狂おしさをはなっていた。ちなみにアンパンマン体操は赤ちゃんの体操だからやらないそうです。

 

 あとは創作物をつくったりして帰宅した。たのしかった。熱出てたけど。内部構造を把握している三歳児の、幼稚園での動線をみていると、おれの知らないところでおれの息子は生きているのだ、と神韻縹渺たるおもいをいだいた。

 

 なんかの読本で、親が愛していれば子も愛することを知る、みたいなことを勉学した。そうかなー? とおもった。愛は才能だよ。才能。

 

 おれはひとを愛することにかんしては天才なので、息子のことを超愛しているし、妻のことだって超好き。だが、世の中にはじぶんの子を愛せないひとだっている。かなしいことだけれども、そういうひともいる。おれたちは二足歩行の才能があって、当たり前のようにそれができるけれども、先天的にできないひともいる。そういうものだとおもう。おれは。

 

 そうおもうと、「父親の愛をうけなかったから、父親にはなれない」みたいな言動は、まったくもって誤謬といわざるを得ない。たしかに、生きる道は親によって、待ち合わせの時刻のように振り回されるけれど、魂に宿っている愛の才能はそんなことで消えやしない、芯の奥から発火している鉱石なのだとおもう。

 

 もし世界のどこかで、おれのジーン上の父親が、えたりかしこしと「離婚した親の子は離婚しやすいのだ。おまえはいずれその愛を失う」とおれを呪っていたとしよう。

 

 だが、ざんねんながらおれには超人的な愛の才能があったので、それの呪いをはねつけてしまう。はねかえった呪いは、光の弾となって父の腹にヒットし、「うっ…」とか「ぎゃっ…」とか「あぅ…」とかうめきながら、えびぞる。そしてあばらが砕け散る。苦しむ父を前にして、おれは太宰の科白をかりてこう言うのだ。

 

「家庭の幸福は、諸悪の根源だったな」

 

今週のお題「おとうさん」

風邪をひいた

 おれは二年に一度、仰臥するほどの風邪をひくことがある。おそらくワールドカップアレルギー。それが土日のことであった。風邪自体は土曜に治癒したのだが、熱が出ると扁桃炎になるくせがついてしまっているので、いまだ小康を得たとは言いがたい。

 

 風邪をひくと、ベッドのなかで身じろぎひとつせず、膝をまるめ、胎児のように養生しているときがながい。しかし、にんげん病床の身といえども、動かねばならぬときがある。

 

 おれはこの「動きたくないのに動かねばならない。否、動かねばならぬのは動くことによって得られる快癒の瑞祥をえるためなので、決して動きたくないわけではない」という、文学的な局面になんども困じ果てることになる。よって、本稿ではこの問題を「動きと快復の葛藤」として定義し、以下そのように記述する。

 

「動きと快復の葛藤」としてまず直面するのが、汗のもんだいである。

 

 風邪をひいたときは水分をよく摂取し、たくさん汗をかくのが良い。という土着的な民族療治を施工している。そのため、大塚製薬が開発したポカリスエットをがぶ飲みし、毛布にくるまって猫のように眠るのだが、そうしていると汗をかく。

 

 輾することもなく、ぢっとしていると世界がとまったようになる。風邪による大腿骨のきしみや、寒気悪寒、各種絶望などを感ずることもあるが、それは身をひそめることによって、比較的ニュアンスの弱いものになる。

 

 だからぢっとしていたい。しかし、ぢっとしていると外的要因による腰の痛みなどをおぼえるのでうごきたくなる。だが、すこしでも身をよじると、衣服のあいだに隙間があき、そこから発汗による蒸気が噴出する。むせかえるような熱い蒸気だ。不快なことこのうえない。さらにその衣服のあいだには冷たい気流がながれこむため、悪寒寒気に之繞をかける結句となる。

 

 また毛布に付着した汗や体液なども、身をひるがえすことによって、その湿り気を、あらたにかんじることになる。これもまたおびただしいほどの不快感を発生させることになるのである。

 

 だからうごきたくない。だが、うごかねば腰や身体に負荷がかかる。しびれもでてくる。もしかしたらその負荷によって血流が阻害され、指先などが壊死するかもしれない。いったいどうすればいいんだ!

 

「動きと快復の葛藤」第二の刺客は、飢渇のもんだい、である。

 

 風邪を早期に治療するためには、水分の摂取が原則的に欠かせない。よって水を飲もうとおもうのだが、はたして、おれは本当になおるのか? という猜疑が、地縛霊のようにつきまとう。

 

 水を摂取するためには、「動きと快復の葛藤」をへなければならない。汗の不快さもある。そんな苦労をしてまで、水を飲むべきなのか? という惑いが生じる。

 

 なぜなら、おれは人生において主役ではないからである。物語の主人公というのは、こういった苦境を乗り切ったときに、あたらしい展望が開かれることがある。しかし、三十一年の馬齢をかさねた結果、おれはおれの人生において主人公ではない、とかんじた。なぜなら、苦境をのりこえてもあたらしい展望など開かれなかったからだ。

 

 ゆえにおれには、諦念のへきがある。「どうせおれなんかなにやったってだめだ」という、いわば捨て鉢な人生。二十歳くらいのときにかんじたこの生きる道のうえの虚無感。だから、不快なおもいをして、苦境をのりこえて水分を摂取したって、おれの風邪は平癒しないのだ、という自暴自棄。

 

 だが、生理的にどうしても水分を所望することだってある。だからポカリを飲みたい。だが、「動きと快復の葛藤」があるために一ミリの動作もしたくない。

 

 重い雲がたれこめた曇天であった。唐紙を幾重にもしたような暗い光のなかで、おれはどうすべきだったのだろう。そんな葛藤のなか、おれは決断を奮い起こした。ポカリを飲む、という決断である。

 

 これはおれのためではない。明くる日曜。息子の幼稚園で父親参観がかいさいされるよていだったのだ。おれは行きたい。おれのためでもあるが、息子のためでもある。今日は遊んでやれなかった。そんな罪の意識をもって、いまを精一杯生きよう、と決心した。それはつまり、水分をとって眠る、ということにほかならない。

 

 おれは「動きと快復の葛藤」に手ずからピリオドをうった。いこうぜ、ピリオドの向こうへ。こんな科白をいうのは今般、綾小路翔とおれくらいだろう。そんなことを考えながら、深く呼吸し、「おならはくさくなかったら罪に問われないのでは?」なんてことも考えながら、おれはまぶたを結び、ふたたび、うばたまの闇を見つめたのだった。

 

 そうして、日曜。風邪は治癒できたが、まだ扁桃炎の残るからだで、幼稚園に推参した。念のために記載すれば扁桃炎はうつらない。だいじょうぶだっつうの。高熱を帯びたおれの体はおびただしいほどの汗を発し、幻惑的な浮遊感につつまれていた。この浮遊感は、どこかスーパーマリオU.S.Aの操作のしにくさに似ていた。参観日のようすは別途、日記に記すことにしたい。

めでたいことが続く

 先日。妻の第三十二回目の誕生日をぶじにむかえた。滄海変じてなんちゃらで、月日がたつのははやいものである。国道をひた走り、警察署をまがった先にあるケーキ屋にいった。バースデイケーキは息子がどうしても「メロンがいい。じゃなきゃぐれる」というのでメロンのケーキにした。これが超うまかった。

 

 ケーキに付属する果実として、苺のチョイスがあるとおもう。しかし、果たして苺のケーキというのはどうなんだろうか。苺の酸味と生クリームの甘味、このダブルの成分が混淆し、超自然的な化学反応をおこすのだろうか、という疑問がおれのなかにある。

 

 やはり甘みは甘みで平仄をあわすべきだとおもう。そのポイントにおいて、メロンというのは素晴らしい。赤肉のメロンだったのだが、生クリーム、スポンジ、そしてメロン。このすべてが甘味に向かって、徒党を組んでいる。その勢い、まさに破竹。

 

 貧愚にからまれ、プレゼントを用意できなかったので、すまねぇ、と憂いながらも、ラインスタンプをプレゼントした。仮面ライダービルドのやつ、二百四十円成。しかし、よろこんでくれた。「これほしかったやつ!」って。良妻である。

 

 銀も/金も玉も/何せむに/まされる宝/子にしかめやも、なんていうので、息子が健康に育つことがなによりのプレゼントだということにした。そんな息子が、昨晩、ようやくトイレで排便できたのである。

 

 排尿にかんしては、かなり前からできていたのだが、排便がむずかしかった。「うんちしたくなったら先に言うんだよ?」なんて難詰していたが、途中でやめた。自然にできるようになるだろう、とおもったのである。

 

 ただひとつ、恐竜のパンツを買っておいた。「うんちできるようになったらお兄さんのパンツはこうね」と、葦をふくむ雁。成功報酬を事前にもうけておいたのである。そしてできた。すごいぜベイビー。やり遂げた息子の第一声は「きょうりゅうのぱんつ、ずっとはきたかったんだよ~」であったらしい。なんて愛くるしいんだ!!

 

 さいきん、息子がかわいい。しゃべるようになってよけいかわいい。こんな生きものが地球に存在したなんて自然界が乱れるぜ! まじで! 大地が洗浄されるようだ! まだまだうんち失敗するかもだけれど、がんばれ。人間よ、気高くあれ!

神さまおれは今、人生のどのあたり?

 土曜。息子が皮膚病をわずらったっぽいので、皮膚医者にいく。門前市を成す、てのはこのことだね、つって一時間半待機せねばならぬという状況におちいった。そもそも、この日、おれたちは安産祈願に参るよていだった。ちなみに前日。その神社の社務所にテルしたら、うざがった、昆虫を手ではらうようなしゃべりの態度をされて、相当な心理的ダメージを負った。

 

 そのことを妻に洩らしたら「きっとそいつはうんこしたかったんだよ! あたし、明日言ってやろうか? うちの傷つきやすいゆうちゃんを傷つけた、うんこしたかったヤツはだれですか? って、言ってやろうか?」と、すごく元気だったので、おもしろかった。へんなひとと結婚してしまった。

 

 で、一時間半のあいだに、ピューッと詣でた。それほど大きくない、荘厳というよりは、庶民的な神社であった。褪色した朱の鳥居に、のどかな風がとおっていった。落ちている木漏れ日は眠そうに揺れていた。神社のジャンルは「子授け・安産」だったので若人がおおい。初穂量は五千円だった。安産アメニティをもらって、ご祈祷をさずかった。三歳児も場面を察しておとなしかった。帰りに賽銭箱に数十円を投擲ちゃりんして、再三の願望をもうしあげた。たのむぜ神よ。

 

 とんぼがえりで皮膚医者にいく。弾丸ツアーであった。息子は伝染性膿痂疹、すなわち「とびひ」のちょっとしたヤツ、とのことだった。さっぱりとした優しい皮膚医者で好き。軟膏と粉薬を処方された。薬局で製粉機のつごうがわるくなり、時間を食らった。

 

 待合の車中で、息子はプラネットダイナソー、おれはハスキングビーのグリップを聴きまくった。グリップには、いっそんの声の「嗄れみ」にバンドの粉骨砕身や、駆け抜ける速度のなかで目的地にだけ焦点を結んでいるような、そんな超エモいかんじがあって、好きですね。

 

 帰路途次。ヤオヒロに寄った。さいきん、近所のご夫人と食量調達の方法について談義したさい、「えー、ここに住んでてヤオヒロ知らないのー!?」みたいな、嫌味や、不遜や、衒いのない、たんじゅんな驚きに触れた。あまりの驚きの純度の高さに、おれたちは逆に歯がゆかった。なぜ当局には地域のお得な情報が舞い込んでこぬのだ。

 

 ヤオヒロはやすかった。とくに野菜類が安く、しかも品質もよかった。ただクレジットカードが使用できないのがあかんかった。買い込んで、冬のシマリスのように食量を貯蔵した。

 

 帰宅して、昼餉を摂取し、午睡しよっか、となっても息子が「せぬ」と申すので、拙宅の庭、外周であそんだ。近所の小学生が、我々と面識のない近所の小学生とあそんでいて、輪に入れない息子の佇立した姿に哀感をおぼえた。一緒にラジコンをしたが、すぐにバッテリーが切れてしまった。

 

 午睡せんかったので、息子が午後七時には寝てしまった。しめしめ、とおもった。さいきん妻とプリズンブレイクを観ているので、これでたくさんのエピソードを消化できるぞ、と獪猾なおもいでいた。食事を用意した。あまりものをオムレツにしたり、レタス、キューカンバーアンドトメイトゥを切ってドレスさせたもの、おれはレタスはちぎるより包丁で切るほうが好き、ってこれはパーレンで括るべきでしたかな、あと、先日コストコで購入した水牛のチーズや、オリーブの漬物である。簡素であったけれど、うまかったし、腹がふくれた。満腹中枢と血糖値が上昇し、すぐ眠ってしまったのが残念だった。ふと、体幹を鍛えようとおもった。

 

 日曜のことも書こうかな、とおもったけれど、めんどくさくなったのでやめる。エレカシの新譜もちょくちょく聴いた。村山☆潤はエレカシの荒荒しさを前面にだしていて好いプロデューサーだな、とおもったけど、あの☆のぶぶんが、めっちゃむかつく。