そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

笑った顔がせつなくて

 曇っていた。しかし晴れがましい気持ちというか、光明が差し込むような気持ちになれたのは、三歳児から四歳児への過渡日であったからである。

 

 ナックルコングというゴリラ型ゾイドドラえもんのパズルでパニックという玩具を用意していた。朝覚醒し、階下に下りるとソファの上に見覚えのない物体Xがある。それはピッシリ整然とした包装紙にくるまれた箱であって、そのことの真相は彼へのプレゼントであると、須臾の間に判然とする物体である。

 

 ゾイドは組み立てではなく復元させる。それをやるのはイッツミー。起きぬけの呆然たる頭脳で「復元の書」の解読を試みるも、なかなか難儀するし、あとあれだ、手元が覚束ないというか、うまく指の神経に脳からの命令が届いていない感じがするのである。

 

 それで漸く復元せしめたナックルコング。なかなか好い感じだった。ただ少年の玩具としてナックルコングはあつかいにやや艱難するというか、けっこう上級者向けなかんじがするのである。

 

 ちなみにこれはアマゾンではなく、有楽町のビックカメラにて購入した。アマゾンだと定価より1200円も高いのである。ふだん不精なおれでも、なぜだか金銭面にかぎると奇妙な向上心に駆られてしまうので、ってゆうか職場は新橋だし、帰路の途次、購入しに向かったのである。

 

 ここで有楽町のビックカメラについての考察というか、おもったことを書いてしまうと、この土日のことがままならなくなるので、ちょっとそのことは書かないでおこうとおもったけれども、でもそうして思いを熟成させると、冷蔵庫の奥で腐ってしまう食品のようにただ捨てるだけになってしまうので、なんだか勿体ないのだけれど、仕方ないとおもう。いやあそこは魔窟ですよ、とだけ記載したい。

 

 朝メシはナックルコングの関係もあって、肉まんですました。昼餉はなに食ったっけ? あれだ! ココス! ココスに参った。写真も撮ったよ。ココスのメニューが刷新されみにくくなった。で夜は手巻き寿司を食べた。

 

 わがままなあまったれだとおもう。おれが比較的体育会系の根性主義なのでときおり頭にくることもあるが、まぁでもやっぱかわいいよ。あとおもしろい。三歳、四歳くらいの子どもっておもしろいよ。まぁ自分の子だからそうおもうのだけれど。

 

 けっこうアクティブなキッズなので外で遊びたがる。んで日曜、ちかくの畑で蜻蛉や飛蝗を生け捕りにしたりした。あとお庭でご飯を食べた。ちょっとしたポータブルテーブルを購入したので、お庭でランチってのも小粋だとおもったのである。あとイスも家族ぶんそろえたしね。

 

 庭でランチってのがとくに心象深く残っている。なんだか気持ちがよかった。雲のおおい日で、合間に蒼穹もみえたけれど、ときどき雨もパラついた。まぁ気にならない程度である。

 

 庭でバーベキュウってのもいいね、なんて相談もして、でもそんなことをして近隣の住人に殺害される事件が世間を騒がせたこともあったので、ちょっと怖いね、ってなった。

 

 もうすぐ次男も生まれそう。ってなって今、おれは「次男」と打って、ちょっと慄いたというか、もうすぐ生まれちゃうんだ、とびっくり。ってゆうか名前決めねぇと、っておもって、さいきんはパソコンの前に座ると、姓名判断のサイトにおもいついた漢字を打つ日々である。仕事は?

 

 いちごとバジルのプランターを移動せしめると、なぞの幼虫がおれの許可もなく住みすいていた。おれの土地やぞ。とおもって、でもこの乾坤に境界線をひき、所有権を発生させるなんて、なんという行為なのだろう、地球はみんなのもの。治しかたがわからないならこれ以上壊さないでください! って叫び、おれと息子は幼虫をオイコスの容器に入れて保存した。

 

 ツイッターオイスカルメイツを懐かしんだので、聴こうとおもったらなぜだかポットショットを聴きだしてしまい、息子と踊って心を解放した。こんな日々がいつまでも続けばと。

音楽作ってるときがいちばん楽しい

 アイフォンにガレージバンドというアプリがはいっている。すこし前、これでよくデモ音源を作っていた。通勤中にドラムいぢったり、ピアノでメロつくったりできるし、竿モノをアイリグというメカに接合し、アイリグをアイフォンに接合することによって、ダイレクトボックスの役割を果たし、ガレージバンド内に竿モノから撥弦されたエネルギーを波動として記録できるので、それを編集するのがたやすかったからである。

 

 めっきりバンド活動もしなくなったため、このアプリほぼ使っていなかった。いや、たまに自分の曲を聴いて、かっけぇ! ってなって、やっぱおれって才能あんじゃんとかおもったりすることもあったけれども。

 

 ギターを弾くことも少なくなった。週末は子どもと遊んでいることが多いし、帰宅後は妻と海外ドラマや映画をみることで時間がつぶれる。あとまぁ家事だよ家事。生きるということは連続的な家事をいかにいなしていくかである。めんどい。

 

 そいでこないだ、ひさびさにガレージバンドを起動させてみた。アコギでてきとうに四小節のバッキングトラックをつくって、ループさせ、ブルートゥースでスピーカーに飛ばし、それに合わせて適当にギターを弾いてみたのである。

 

 すごく楽しかった。ぜんぜん弾けなかったけど。なんかガレージバンドのループがうまい具合繋がらなくてやきもきしたけれども、つたないスリーフィンガーの、ぽろぽろと零れおちるアルペジオ。それを縫うようにアドリブっぽいソロを当てていくだけなのだけれど、やっぱ楽しい。たったこれだけのことなのに、なんだか「なにかを生み出している」感があった。

 

 むかし「音楽とは擬態である」となにかの読み物にあった。ミンストレルショーからはじまるそれはやはり白人による黒人の模倣、つまり擬態である、と。だから要するに音楽、ショウビズというのは「なにものかになりきる」ことが枢要なのだ、と。

 

 なんだかこうして音を重ねていくだけの行為であっても、なにかを生み出せる超すごいひと、みたいな「なりきり」感があった。となりで妻がスマホをいぢっていたのだが、ここぞとばかりにおれは「おれ今アーティスト活動中だから」感をアピールしたくなったりもした。

 

 やっぱり音楽を作っているときがいちばん楽しい。こんな簡単なやつだけで音楽を作るなんていうのも正気の沙汰ではないけれど、そうおもった。もうちょっといろんなスケールとか覚えようかな、なんておもった。

冷えたマーガリンを塗ろうとして食パンがズタズタになったことがある

 ちょっと恥ずかしいことなのだけれど、政治的なことにまったく興味がない。澁澤龍彦が「たった一日の選挙日だけで政治にかかわった気になっているのは馬鹿じゃん」みたいなこと書いていて、うわ、このひと性格わるっ! とおもったのが原因かもしれない。

 

 つまりおれは右でも左でもなく、アベでもトランプでもない。ただの望月である。三十二歳。だから常にフラットな場所にいる。フラット望月32。しかし、なんの政治的な介入もないくせに、なぜだか拙宅では、フジテレビを見る機会が減ったのである。なぜじゃ。

 

 そんなフジテレビと久闊を叙した。エンゲイグランドスラム2018というテレビジョン放送を観賞したのである。これはいつの話しじゃ。

 

 おもしろかった。めっちゃながかったけど。妻と観賞したのだが、おれも妻もコントよりは漫才が好きで、THEマンザイは観るけれどキングオブコント観ない、という家庭的方針があるのだが、ハナコというトリオがキングオブコントで優勝したことはネットでみて知っているし、エンゲイグランドスラムにも登場していて、観てみたところ、これがとてもおもしろかった。コントで言えばバイきんぐも東京03もおもしろかった。

 

 つうか、きほんてきにみんなおもしろかった。「よくやった」と言いながら百円ずつさしあげたい。そのなかで、今回いちばん心にきたフレーズは、ハライチの「冷えたマーガリンを塗ろうとして食パンがズタズタになることがある」である。

 

 やっぱあるあるネタはおもしろいよねーってなりますね。ってゆうか、いままで誰しもが言葉にしてこなかった「ちょっとした苦悩」みたいなものを世界に顕在化させる能力というのは、すごくすごいとおもう。すごくすごい。おれもあるもん、冷えたマーガリンを塗ろうとして食パンがずたずたになったこと。

 

 さいきんテレビレコーダーを新潮したので、たくさんテレビを録画して観ている。おっと、誤字ですね。新潮ではなく新調です。政治に興味はありませんので。

普通の日々よ

 ふつうに生きる。これほど難渋を極めることもないとおもう。おれも三十二年の馬齢を重ねてはいるが、今までふつうに生きれたためしがない。

 

 そんなちょっとネガティブなことを洩らすと「ふつうじゃなくたっていいじゃないか」という、ずいぶん暴力的な意見が飛びかってくるが、それはちがうとおもう。

 

 なにがちがうのかというと、貴殿のようななんとなくふつうに生きてこられた人が「ふつうじゃなくてもいい」というのは説得力に欠ける、ということであって、ふつうに生きられないひとというのは基本的に「ふつうになりたい」と懇願するものであるからである。「せめて人並みに」とおもうからである。である。

 

「ふつうじゃなくてもいい」にはけっこうポジティブなニュアンスが含まれていて、特別なあなたでいいのよ、というステラおばさんがクッキーを焼いてくれそうな、すごく慈愛にみちたフレーズであるけれども、こっちとしては「いやいやそれはふつうじゃないに一縷の希望がつまっているパターンであって、こっちはせめて周囲のにんげんとおなじスタートラインに立ちたいだけなのそれだけなの」という含意があって、希望や光がゼロ、ウルトラうばたまの闇のどん底であるわけだから、それを「そのままでいい。特別なあなたじゃないか」みたいなかんじで言われても、じゃあおまえこっちの立場になってみろよ。おまえがおれの人生を送ったら精神やられてすでに自殺してるぜ? とおもうわけですね。

 

 じゃあ、どんな言葉をかければよいのか、というと、そこはやっぱコミュの基本三大要素である同調を使用すべきで「ふつうってむずかしいよね」と言うしかアンサーは無いとおもう。

 

 だが「ふつう」になるために指を咥えてまっているほどおれは惰弱なにんげんではない。おれ、がんばる。だからさいきん、あるひとつのアクションをおこした。それはつまり、フルグラ生活をはじめたのである。

 

 フルーツグラノーラという乾燥食品には食物繊維がいっぱい詰まっており、食えばたちまちにして元気にうんこができ、健康で丈夫なボディが手に入るらしい。そして健康で丈夫なボディをもってして生きれば「ふつう」の生活が手に入るらしのである。

 

 そんな魅力的なアイテムがこの世に存在するなどちっともおもってみなかったし、そんなものは基本的に詐欺や瞞着のたぐいである、と決め付けていたのだが、いやぁ、これがどうもなかなか。いい具合に「ふつう」の生活が手にはいったのである。

 

 どんなふうに「ふつう」なのか。それはつまり、牛乳パックがいつでもすぐそこにある、ということである。

 

 ちょっと説明がひつようですね。つまり嗣子たる三歳児がこども園に通っているのですよ。すると幼稚園から出し抜けに「各家庭から牛乳パックを持参してください」と強制されることがあるのである。

 

 フルグラ生活をはじめる前までは、拙宅に牛乳パックなどなかった。牛乳を飲む文化がなかったのである。しかし幼稚園は、さも牛乳パックが各家庭には常に存在しているかのようにモノを申してくるのである。

 

 以前その「お知らせ」をうけ、おれと妻は戦慄した。手足をぶるぶると震わせながら、冷汗三斗。我が家にはそんなアイテム存在しないんですけど? どうすればいいの? 「ふつう」の御宅には牛乳パックがあるの? それが「ふつう」なの? なんてぐあいに超慄然としたのである。

 

 しかし、今はどうだ。牛乳パック。あるある。いつ何時でも牛乳パックの徴収があっても対応できる。これもフルグラ生活をはじめたたまものである。いいよね、やっぱふつうって。すばらしいよね。みなさんもフルグラ生活でふつうの日々を手に入れよう。

金木犀の香りがしてたまらなくなって

 月がきれいでした。水中に墨汁をいれたような暗雲がたれこめていましたが、それが余計に月の神秘性へ之繞をかけていたようでした。虫の声がりんりんと聴こえていました。

 

 感動したのはラーメンです。国道を車でちょっと行ったところに田所商店という麺屋があります。チェーン店ですが、ファミリーでうまいラーメンを食うならここ、というような雰囲気があります。

 

 元来、味噌屋であつたやうである。中華蕎麦のつゆ、その下味としての味噌を三種選ぶところから、この味噌らあめんとの闘争ははじまつているのである。その三種は九州味噌、信州味噌、北海道味噌と南北にながい日本列島を象徴してゐる。

 

 わたしは北海道味噌をえらんだ。妻は九州味噌。おしながきを閲してみると最後のペエジに味噌のちがひが書かれていた。その記載内容にひつぱられるがごとく、北海道味噌の味はひは濃厚であったし、九州のそれはすこしく淡白でありながら切れ味の良好なものであつた。

 

 なによりも子ども用キッズプレートの味噌らあめんもうまかつた。子ども用には味噌の選択はなかつたが、子ども用として侮るなかれ、たいへんな美味であつたのだ。子ども用だからといつてないがしろにせぬ料理人の矜持を見たきがしたのだつた。

 

 なぜ旧仮名遣ひなのでせふか。というと、まぁひとことでは形容しきれぬいろんな状況、のっぴきならぬ、というか一筋縄ではいかぬ、なんてなこたぁねぇのだが、丸谷才一の「食通知つたかぶり」を読んだからである。あれおもしろかったは。

 

 たな曇りの一日でした。夕刻に近所の子どもたちが遊びにきました。たいへんかまびすしかったのですが、豚児が欣喜たる様子だったのでよかったです。どうやら、ものごとを自慢したい時期にさしかかっているようです。

 

 アコースチックギターの弦をフォスファー弦にしました。コードストロークなどせず、もっぱらフィンガーピックをしているからです。安物のギターなのですがマーチンのような凛とした響きになった気がします。こんかい細めの弦にしてみたのですが、やはりすこし太めの弦が好みです。

 

 しづかな秋の夜です。静謐でひっそりとした夜気です。妻と内村さまぁ~ずを見たりしています。ネットフリックスではバキを見ています。窓を開ければ涼しげな風がとおりすぎます。なにかが終わっていくような気配がします。笑っているのに、なぜかさびしい感じがします。

すごい歌詞とは

 すごい歌詞というのは、やはり、ふいに口を衝いて出るものなんだとおもう。そう考えると、日常に潜む抽象性や観念的な事象をば、具体性をもって表現している歌詞がすごいんじゃないかな、なんておもったりして、だからまぁなにが言いたいのかというと、昨日からちょっと寒くて、半袖じゃちょっと寒くなってきたな、なんてフレーズがぽろっと唇から漏れたのである。

 

 いわずとしれたゴーイングアンダーグラウンドの佳曲「トワイライト」の一節である。この時期になると「半袖じゃちょっと寒くなってきたな」って言いたくなる。言いたくなるというか歌いたくなる。

 

 だが、殷賑とした往来で三十二歳にもなるおっさんがひとり忽然と歌いだした場合、世間様から白眼視され、さいあくの結末としては検非違使なんかに捕縛され、精神病棟に連行後、ロボトミー手術なんかを施されかねない。拙者、じつは「カッコーの巣の上で」というムービーを拝見したことがあるのでロボトミーの危険性はうすうす勘付いているのである。

 

 そういうことでお口にチャック。なみなみならぬ忍耐で帰路についておったところ、あぁもうこんな時期なんですね、ってか気が早くないですか、ってなものであるけれど、オレンジ色したカボチャに角ばった目と口をペイントしたハロウィン仕様のバルーンが洋菓子店のまえでふらふらと風にゆられていたのである。

 

 かぼちゃのお化け。これはアンディモリというバンドが歌う「グロリアス軽トラ」の一節である。すでに口のなかは、「半袖じゃちょっと寒くなってきたな」という歌でいっぱいになっているところにつけて、「そしてかぼちゃの、おば、け」という追い込みをかけられてしまったのである。口のなかは歌で渋滞しているというのに。

 

 ゴッドタンというテレビジョンの番組で、マジ歌選手権というのを観たことがある。それは芸人が作詞作曲したマジ歌を、牛乳を口に含み観賞し、噴出さないようにする、というとてもおもしろい企画物であるが、笑いを我慢している唇にはうっすらと白い物が浮かんでいるのである。

 

 そういった感じ。今おれの唇は。口腔内は歌で充溢している。いまにも叫びだしそうなくらいパンパンに頬が膨れ上がっている。さいきんシャインマスカットといううまい葡萄を食らったのだが、その果実は果肉によって表皮をぱつんぱつんに膨らませて光沢を放っていた。そういう風采である。

 

 体内からこみ上げてくるこのすばらしい歌詞たち。とても素敵だとおもう。だが、いい歳こいたおっさんが道端で矢庭に歌い出すなんてちょっと考えられない。秋めいた夜空、雑沓のなかに溶けてゆく歌声は、きっと誰にも届かないだろうが、それは確実におれを狂人たらしめてしまう。

 

 あかんよね。それにしても秋だなぁ。マジで真夏のピークは去ったなぁ。夏の終わりだなぁ。というフレーズがダブルで浮かんできてもう駄目です。さよならベイビー。

光とか実際苦手で

 陰気に生くるよりは、サンバのリズムで陽気に生くるほうが、やっぱいいじゃん! なんてことを情理を尽くして説いてみたところで、やはり希望ではなく、比較的絶望サイドに立たされている現代ニッポンの民草は、きっと「うるせぇよ」とおもうにちがいない。

 

 じじつ、おれもそうだ。この日々に光が見つけられない。このままおめおめと生きていくことは可能だけれど、ずっとこころの空隙を寂寥で埋めるような日々をすごしていくだけなのである。ものすごく陰気である。

 

 これじゃあかんよ。マジで。このまま陰のパワーに侵されつづければ、おれにはハッピーなエンディングはおとずれない。やってこない。手に入らない。世の中には「引き寄せの法則」というものがあって、ハッピーでいるためには、ハッピーなことをしなければいけない。つまり陽気に生きたいのならば、陽気でいなければいけないのである。

 

 ということで、陽気まくりたいおれは、手ごろな陰気から抹消していくことをここに決意した。眦をキッっとね。で、手始めになにからしよっか。お、あったあった。手ごろな陰気。これじゃよ。って陰毛、ますはこれを陽毛にしたいな、と思い至ったのである。

 

 陰毛の定義というのは、いわば「隠れている」ということだとおもう。つまりおれたちのこの頭髪、これは「隠れていない」、いわば陽毛であって、逆に陰茎の上部に鬱蒼としている、ふだんはパンツのしたに隠れているものが陰毛なのである。

 

 でも、だからといって陰毛を丸出しにして往来を泰然自若に闊歩する、なんて真似は、数多のひとに言えぬようなことをしてきたおれでも、さすがに憚りごとである。法律で禁止されています。

 

 法をやぶる勇気があればいいのだが、そうもできない。あぁ、なんてこった。こうしておれはまた自分で自分の可能性を殺す。やはりおれには無理なのかもしれない。陰気な人の道を歩くしかない。おれは一生涯、陽気に生くることはできぬのである。

 

 でも、待って。これは人民が集合している往来、ショッピングセンター、駅、公共施設、飲食店などでおこなわなければいいだけであって、自分ちならば、どんなに陰毛を陽毛としてさらけ出してしても、なにも問題はないのではないか。

 

 あはは。そうじゃん。答えはけっこう簡単だった。ということで、おれは陰毛を陽毛にクラスチェンジさすべく、頭髪とどうようの待遇を処そうとドライヤーという乾燥メカを陰毛にあててみたのである。

 

 さっぱりした気持ちにはなったが、こんなことをしている自分が、なんだか恥ずかしくてたまらなくなった。あ、おれ今けっこう死にたいわ。なんて、とても陰気な気持ちになった。陽気を目指していたのに、どうしてなんだろう。