そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

ビートルズはリボルバーが最高だよな

 

 過日。土曜。午前九時。われわれ一家は保育園にいた。われわれだけではない。その保育園にかようほとんどの家庭がそこにいた。保育園の開催する運動会だったのである。

 運動神経がわるい。という文句がある。おもに運動能力の出来不出来をさししめす言葉であるが、運動神経がわるい、というのは生物学的にないそうだ。運動神経はほとんどの人類、それはもちろん病などによる例外を除いて、にびょうどうに神のデザインによってなされているものであり、それに良し、悪しというのはない、ということらしい。

 そうなると運動会。これもふしぎな単語である。われわれはふだんから多少の運動をしている。スマホを持ち上げ指で操作する。包丁をもってにんじんを裁断する。スポンジに洗剤を吹きかけ風呂桶を清掃する。など、これすべて運動なわけであって、それをもって大会にするなど、地味である。

 でもそうじゃないじゃん。運動会って。わかってるーっつーの。て感じでうふふ。ちょっとお調子に乗ってみましたわ。

 それで運動会にいったのだけれど、たのしかった。保護者のみの参加で奇蹟がおきた。俺は優勝チームに属したが、それはそれとて憂悶することもあった。死にたくなった。

 息子がおおきくなったなぁ、とかんじる。とにかくよくしゃべるし、自分で考えたフレーズで自分のおもっていることを放つ。人間としてふつうのことなのだが、意思不明瞭な喃語をしていた時期を知っているだけに、なんだかふしぎだ。

 俺はいまだに自分に息子がいることに不可思議をおぼえる。壮大な夢なのか、ドッキリなのかな、とおもっている。でももし、これが嘘だとわかったとき、無窮の喪失感とともに、一抹の安心を得るかもしれない。

 息子の肩甲骨から背骨をみるのが好き。はだかの彼の後ろすがたは、人体の縮図をみているようでおもしろい。

 日曜は選挙にいった。投票はいったけど外食はしなかった。ちなみにめっちゃ混雑していた。雨。もし投票がネットオンリーになったら年齢的な投票率は逆転するのではないだろうか。けっきょくそういうものだとおもう。

 無印良品というよろず屋にいき、シーツを買おう! とおもったのだが、ほかの買い物をしているあいだに失念し、肝要なシーツを買い忘れた。こういうときに人は、とほほ、と言うべきだろう。

 ショッピングモールで哺乳類と接触できるイベントがやっていた。二百円、たっか。人間の業。たこやきマンボの替え歌。鶏肉のバター炒めをたくさん食べてくれた。鮭のホイル焼き、めっちゃうまい。ローズマリーという香草が好き。

 

これからはくだらないことどんどん書いてやるからな

 

 なんで二個もブログやってんの? っておもうじゃん。正直に言おう。俺はこわくなっちまったんだ。だって読者様四百人以上いるんですぜ? 更新するとアナリティクスぐーんってあがるんですよ。こわいじゃん。ふつうに考えて。

 だからあまりくだらないことは、こっちに加工、おっと誤字だ、書こうとおもったんですよ。よって私はふたつの顔を持つ男、ダブルフェイスマンとしてインターネットの海に帆を立てているのです。

 でも、なんだかもういっかな、とおもった。もっと素直にいろいろ書いていいんじゃないかな、っておもった。書きたいことを書けばいいんだ。なんておもった。俺の日記はくだらないよ。知ってる。でもそれでずっとやってきたじゃあないか。そうしてきたんじゃないか。上澄みばっかりを汲み取った日記はもはや日記ではないだろう。

 文は人なり、というけれども俺の文面から俺はどうおもわれているのだろうか。へんなひとだとおもわれていないか不安だ。嘘。ぜんぜん不安じゃない。まともなことしか書いていないから。ふふふ。けどこれからの俺はぜんぜんちがうぜ。もう煉獄の焔を立ち上げる炎上ブログをつくってやる。

 手始めに、ここに極論を書く。天地を分かつような極論だ。きらわれたって構いやしない。では申し上げる。納豆はあまりかきまぜないほうが美味い。

 よくかき混ぜるとうまみが増す、なんていうが、うそだ。混ぜすぎたらなに食ってんだかわからなくなる。おれは三回くらい混ぜたらそれで食う。だってそのほうが納豆のマメの食感がよくわかるし、タレとマメが混淆していく口腔内の楽しみを得ることができる。なにより、混ぜている間に飯が冷めるだろうが。あほか。

 あつあつの白飯に、固めのなっとうが最強だ。ふわふわの納豆(はーと)って女子かよ。男は無骨に飯をかっこむのが格好好いんだ。わかったか。

 

桃源郷にくらしたいなぁ。

 

 ぼかぁね、こうしていきてるだけで、しあわせなんだぁ。

 はは。そんなこと言ってみたい。しかし、所詮この世は寸善尺魔。生きることはじごくですよ。どうです? みなさん、しあわせですか? 大見得きって「ぼかぁ、しあわせだなぁ」なんて言える人がいないこんな国は、嗚呼もうだめかもしれない! エストニアに行かなくちゃ!!

 しかし、希望をすてたらおしまいだよ。きっと世の中には桃源郷ってものがあるはずなんだ。それはどこかにあるはずなんだ。暗いトンネルを抜けると、そこは小鳥のさえずりだけが響く、淡い色の世界だった。

 あまい果実味をふくんだにおいが満ちている。胸いっぱいに息をすいこむだけで、脳みそに充足感があふれ、ふわふわした気持ちになってしまう。桃色の空気。頬をなでるのは春の風。瑞々しい芝生にいっぽんのあぜ道。その先には白亜色の宮殿。空は晴れていて、虹色がかった淡色の天球には大小いくつも惑星の陰翳がうっすらと浮かんでいる。瑰麗たる風光絶佳。

 宮殿にて。女たちは嫣然とわらって迎えてくれる。どれも明眸皓歯。窈窕たる淑女だった。羽衣をまとった彼女たちが漏らす吐息にさえ甘露の響きがあった。

 奥にすすめば、シルクのようなさらさらのつめたいような、あたたかいようなソファにうながされ、着席する。まるで俺の人体を精緻に調査した結果デザインされたようなソファで、まるで座っていないほうが不自然なくらいのフィット感だ。

 配膳された目もあやなる炊金饌玉。海の珍味に山の佳肴。香ばしさが湯気をたてて踊っている。食前方丈。金色の酒。滋味である。

 そんなところで飲んで食っておどりたい。毎日がパーティー。狂ったように酔いしれて、この世の憂いをすべて投げ出したい。気持ち好いなぁ。生きているだけで仕合せだなぁなんて、利己的な快楽に惑溺したとき、でもそれってほんとうに仕合せなのだろうか、という疑問が、いま現実に生きているからこそ、湧く。

 おそらく、この桃源郷にいたら気がつかないだろう。人間とはそういった「自分さえよければそれでいい」みたいな、そんな感じで生きている。まったく俗臭がぷんぷんだぜ。

 そんなことから俺は解脱した。俺には家族がいる。妻と子という愛すべき係累がいる。それだけで好いじゃあないか。まいにち仕事がいやだなぁとおもっても、幾たびさげたくない頭をさげても、この身と矜持を切り売りして、ようやく家族の恒久和平がもたらされている。それって立派じゃない?

 たまに「やりたくないことばっかやって生きていくなんて、ばかじゃなーい?」と語尾上げ気味におっしゃるかたがおられるが、こうして物質社会の檻のなかで、おれは自分の価値をみつけているんだ。きっと俺は世界中のひとびとをしあわせにできないし、自分自身をしあわせにすることもできないだろう。でも、俺が生きているということでしあわせにできる可能性がある人間がふたりもいる、という事実だけあればそれで好いのではないだろうか。はは、かっこいいこと言っちゃったぜ。でもできればマッサージくらいは行きたい。

今週のお題「行ってみたい場所」

 

雨の一日

 

 日曜。小糠雨。さて、どうしたものか。思案投げ首。かくなるばあいにおいて、三歳児と遊ぶとなると、非常に難儀する。

 昨日。土曜。三歳児が三歳児になった記念として贈呈品をおくった。それで遊びをすること多し。さまざまな玩具を取り揃えているが、真新しいものがやはり好いようだ。

 個人的に。子どもにはギターを教えないつもりでいる。というか、私が騒々しい音楽が好きだからといって、息子にそれを好きにさせようとする気は毛頭ないのだが、どうしてだろうか。家屋内部ではいつも私が好きな音楽を鳴らしている。

 ポールサイモンのグレイスランド、アルバートコリンズのアイスピッキン、ジミヘンのライブ、クラッシュのロンドンコーリング、ブエナビスタソシアルクラブ、夜はずっとビートルズを鳴らしていた。さいきん俺のなかで第五十二次ビートルズブームがきている。

 まず第一の理由として、息子にはテレビを見させないほうがなにかとうまくことが運ぶ、ということが判明したからであり、テレビをつけないならば、なにか音楽を鳴らしていても問題ない、ということなので、アンカーのポータブルのスピーカーで音楽を鳴らしている。

 しかし、おそらく俺の深層心理では息子に「おれと同じ音楽を好きになってほしいなぁ」という気持ちがあるのだとおもう。音楽は心を豊かにする、なんつって腐ったロックミュージックなんか聴いててもだめだとおもうけど。だからすこしシューベルトとか鳴らした。

 俺は親の影響なく、自分の好きなものを見つけたけれど、やはり親がそういうのを好きな人っていうのはスタートラインがちがうわけで、すこしうらやましかった。だから俺はロックのお勉強をたくさんした。勉強というワードはロックという音楽にはもっとも相性の悪い言葉ではあるが。

 俺が俺の息子だったら、これはすごく好い環境だとおもう。しかし、それは息子に嗜好性を無理強いさせているのではないだろうか、ともおもう。むずかしい。

 でも、もし息子がギターをはじめたい! なんて言い出したときに、「これは君の生まれ年のギターだよ。安物だけど、パパがたくさんつかっていたから音はとても好い」なんつってギターを渡してあげたい。生まれ年のギターって好いよね。

 だからギターを買いたいなぁ、なんておもっている。でも金はない。だめだこりゃ。

 

山荘にいくと必ず殺人事件がおこるので、それを解決しないとスキー・スノボになんて行けない問題

 

 秋の色彩も深みを帯びてきた。冷ややかな空気が滞留しているが、まだ時折、夏のつよい陽射しが降ることもある。おかげんいかがですか? と誰に聞いているのですか。

 この時期になると、とある友人が、「雪山にのぼり、木板にのって均衡を保ち、降雪で摩擦が極力よわくなった斜面を滑走しよう」という提案をしてくるのだが、それには問題点がある。日帰りが困難であり、宿泊をしなければならない、ということである。

 つまり山のうえにある宿に枕を置かねばならぬのだが、山の宿、いわゆる山荘にたいして私がゆいいつもっている知識がある。それは、こういうところではだいたい殺人事件が発生する、ということである。金田一少年の事件簿名探偵コナンでよく枚挙される。

 だから死にたくないから、私はいつも行かない。けっしてスキーやスノボができないわけではない。いまのところ知人に死者はでていないようだが、いつでるかわからない。震えている。

 山の天候はかわりやすい。抜けるような蒼穹からふりそそぐ陽光は、真っ白な地表に乱反射し角膜につき刺さる。左様な天候から急激なコペ転。のばした手の先が見えなくなるような吹雪になることもある。

 暮。地元の珍味佳肴に舌をうち、地元酒造の生酒に唇をぬらす。酒は臓腑に火がともるようなあたたかさをあたえる。付設した温泉施設にからだを癒し、明日の予定をたてていると、「ぎゃー」と絶叫がこだまする。防音施工があまい! とおもいますね。

 人群のすきまから、人間の足がみえる。このばあい、人間だったもの、と言ったほうがただしいのかもしれない。人郡の波を掻き分けると。血で染まったカーペットの上に、ひとりの男性が臥していた。

 それはこの山荘のオーナーであり、今回の「初心者も安心! スキー・スノボを格安で!キャンペーン。いまなら漏れなくやまびこ荘オリジナルキーストラップをプレゼント!」の立案者である。かれの家族知人と思わしき人が滂沱たる紅涙をしぼっている。どうじに怒号がきこえる。「いったいだれがこんなことをしたんだ!」オーナーの胸には一振りの刃がたっていた。

 みんなその場をうごかないで! と言うのは、そういった関係者なのだろう。空気に緊張がはしる。指示があるまでこの部屋をでないでください! という。そんなこといわれたって、俺は全裸なんですがどうすればよいですか? と思いますね。各々不平不満をもらすなか、ひとりちょこまかと出歩く蝶ネクタイの小学生。

 その犯人は意外な人物だった! ってゆうかこういう場合、犯人が意外な人物でなければものがたりがおもしろくならない! スリル! ショック! サスペンス! 外は闇と白が混ざりあう猛烈な吹雪! ホワイトアウト! 閉じ込められた二百人の容疑者! はじまるこの土地独特の奇祭! それは人を人とも思わぬ残酷な儀式をようするものだった! 人質にとられる毛利蘭。交錯する思惑。次々と殺される人間たち。犯行現場に残された猿渡の面。たたりじゃ…。と謎のババアが言う。銃撃戦。カーチェイス。吊橋エフェクトでうまれるロマンス。目にもとまらぬ肉弾戦。宇宙人の襲来。もちろんお色気シーンもあるよ。なんつって爆発する山荘。「らーーーーん!!!」「しんいちーーーー!!!」場面はかわって大きな腕にいだかれる毛利蘭。「しんいち… 来てくれたのね… 最後に会えて… よかっ…た…」もういちど「らーーーーーん!!」

 テレッテレッテレッテレレレー テレッテレッテレッテレレレー テレッテレッテレッテレレレー テーテー 劇場版名探偵コナン! 白銀祭りのニンジャ天狗(サイレントキラー)!

   「犯人は…  俺がぜったいに見つけ出す…   じっちゃんの名にかけて…!」二〇一八年春公開予定。続報を待て…!!うそです。

 

カーズのケーキ

 

 息子が、来る西暦二〇十七年、十月十三日金曜日、先勝をもって三歳となる。よってかれのプレゼントを用意しようと謀っている。

 息子に、なにがほしい? と聴聞したところ、ディズニーキャラクテルのミニーマウス、デイジーダックの名を冠している淡い桃色を基調としたデュプロブロックがほしい! と言っていた。私は伸吟。なぜならば。

 息子にはもちろん、息子というくらいだから、小さいけれど、きちんとしたちんぽこが付いている。その淡い桃色を基調としたデュプロブロックは、こういったことを言うと性差別だ! とお怒りの声をいただくかもしれないが、女の子用だとすいさつできる。

 だから、できればもっと男の子然とした、はっきりとした色合いの「くるま、トラックセット」みたいなものを選んでほしいなぁ、なんて思ったりしている。息子はくるまが大好きなので。

 また、そのミニーマウスとデイジーダックのデュプロセットは、そのミニーマウスとデイジーダックのお店屋さんを作成するものであって、汎用性がない。知育という単語はおとなの思惑に踊らされているようで厭悪しているが、ブロックというのは、想像力がトレーニングできるものだとおもっている。つまり、汎用性の高いたんじゅんな形状のブロックならば、それを車にみたてたり、飛行機にしたり、建築物にすることも可能である。だからミニーマウスと(略)は汎用性がないからやめたほうがいいのでは? と思ったが、まぁ本人が欲しいならそれでもいっか。とおもった。

 ケーキを注文せねばなるまい。とおもったのは、かくなるキャラクテルをバタークリームで描いてくれる洋菓子屋があるのだが、もちろんそれは予約制であって、事前に模写する資料を持参して呉れ、と注意事項にかいてあったからである。

 だから私と妻、息子は自動車に身体を入れた。私はステアリングを握りガスペダルをふみつけて運転した。狭い市道の路傍にある洋菓子屋だった。息子はカーズというディズニーのキャラクテルの惑溺しているので、それをたのんだ。

 洋菓子屋にいって注文だけする。なんて無粋なのだろう。そうおもったのでケーキを三つ購入して帰った。

 我が家はこういったとき、ちょっと特殊なのだろうか。三つ買うし、それぞれに分配するのだが、ほとんど全部を三等分して食う。中華のように皿を回して食う。だってそのほうがいろいろ食べれんじゃん、というた画期的なアイデアから生まれたものである。さいきんのケーキはあれですね。ほとんどが長方形なのですね。

 当日はなにをたべようか。食うことばかりに拘泥している。息子がだいすきな鶏肉のハンバーグは今週大量に作り置きした。先週は手羽中をフライしたのだが、それも息子が好きなので、それにしようかな、とおもっている。君に幸あれ。

 

窓をあけましょう ルルル

 

 よーんでみましょう、サザエさん。火曜日にサザエさんが放映されていたことをご存知のおかたが、どれほどおられるだらうか。って古文的に書いてみました。

 あまり歌詞というものを意識しないのですが、たまに「はっ!」とさせられる、思わぬ自分に気がつく歌詞がある。自己啓発的、といいますか。かくなるサザエさんの歌詞にもそれが存在しており、私は自分のしらなかった自分を見出すことができた。ほんとうにありがとう。波平、フネ、サザエを産んでくれて、ほんとうにありがとう。

 ちなみに、その歌詞というのが、

うちとおんなじね なかよしね

私もサザエさん あなたもサザエさん

 というサビの部分である。おれはサザエさんだったのか!? なってってあーらびっくり。びつくり。

 しかし、おれも馬鹿ではない。わかっている。これは比喩である。仲良い家庭の代名詞として「サザエさん」をしようしているのであって、クローン技術ではあるまいし、やはり同じ人間というものは、この世にふたりといないじゃん。だからいいんだよ。じぶんはじぶんで。なんて感じの深みのある歌詞世界には正岡子規もびつくりですね。はっはっはっはっ。

 わーらうこえまでおんなじねー、はっはっはっはっ、おんなじーねー