躍るブログ
なんだかブログをやっていていろんな方にブログを言及していただいた。
いっぽう私はあまり人のブログへの言及をしていない気がする。これはブログの方向性とかも関係あると思うのだが、私の場合「私なんかに…」といった卑下の気持ちが強いのだと思う。
けれども私もそこそこブログをやってきた。ブログを1年続けられる人はすごい!といつも読んでいる方もおっしゃっていたので、まぁすごいんだろう。だからそろそろそういった他の人への言及なんかもしていこうかな、なんて思っている。
やっぱりブログを褒められるとうれしい。1年もやっている割に月のPVなんかは10万とかいかないけど、それでも好きなことを書いていて、それに賛辞を送っていただくと小躍りしたくなる。ってか実際している。
もっとワードをたくさん入れて検索を狙う!みたいなこともすべきなのかもしれない。まぁ興が乗ったらやればよい。あと音楽系の記事も書きたいなと思っている。検索で読まれてるのは音楽系ばかりだ。
ついこの間、私の記事にわざわざお問い合わせからメールを送ってくださった方がいらっしゃった。これはとてもうれしかった。大躍りした。ちいさなジシンになった。
こっちのブログはどういう具合にやっていこうか、模索中である。「である」なんてカッコつけて書いているけれどもただの虚勢である。ってか体言止めがあまり好きではないから付けてしまうのだけなのである。って書くと体言止めをしている人が好きではないと捉えられがちだけれど、そうではなく、自分自身が体言止めするのが嫌なだけであって、他の人が使っていても別段なにも感じないとだけ記載しておきます。
なんだかんだで700文字かいてしまった。でもこんな感じで気軽にやっていきたい。
新月
目が覚めると6月だった。
日々を裏表しているような毎日である。しかし意識下にはいつだって月の境界線というものがある。新しい月になるたび、透明なフィルムをむいて、パッケージを破いたような覚えをおこす。でも結局はいつもの内容物であったりするから救えない。決して当たりくじなんて入っていない人生なんだな、と諦念する。
くしゃっと開けた6月にはおまけがついている。雨季という特典である。粘りつくような湿度が、むせかえるように心地悪く気管支を圧迫する。雨も、傘も、湿気も、なにもかもが鬱陶しくて、いやになる。
仄暗い水無月の憂鬱は、国民的休日の皆無も相まって、どこか疎ましげに思われる。それはきっとすべての生命体が煩うことであるのだなぁと低くなった曇天の空に思う。重たくなった空はいっそ落体して、この世界を飲み込んでしまえば、よほどのことが無いかぎり諦めがつくと思う。
6月10日がやってくれば、それは14年の号砲である。もう14年。紙雷管はすでに湿り気を帯びており、軽快な渇いた音は響かない。通例的な儀式として鳴らすけれども、それは卑小であって、重く鈍くすこしだけ空気を振るわせるだけである。
どんなに倦怠が募っても、しかし新しい日々の始まりであることは不動の真実である。やまない渇仰は、しきりに清澄な心であって、けして煌びやかな眩光は放たないとしても、それは上記でいう「よほどのこと」であると思う。
それは限りなく個人的なのわがままな念願かもしれない。しかし世相を鑑みてもそれはシワのない真っ白なシーツのように思う。我が家のシーツはダークブラウンだが。
やっぱロックが好きというタイトルを変更しました
なにげなく日記タイトルを変更してしまった。それはなぜかと言われればまぁちょっと編集に際してメインの「まだ」とサブの「やっぱ」でわかりにくかったんですね。
ブルースではなくブルーズと謳っているところがたいへんしゃらくさいですが、まぁいいかんじじゃないでしょうか。語感のリズムが良い。そんで最語を「き」で終わらせてライムを踏むかんじがまた洒落ていると個人的に思っています。って自分で説明すんのってめっちゃはずかしいですわ。おほほほ。って照れ隠しで、おほほほなんて書いてみましたが、本当はとても真顔で書いています。だってぜんぜんおもしろくないんだもの。
そうしてこっちの日記もたまに書かないとという義務感にさいなまれています。しかし正直なにをかこうかなーなんて思っている。アクセスどうでもいいし、見ている人がぜんぜんいないと仮定して書いているので、つまり天丼がすごいと思うのはそのネーミングですよ。「天」というのはもちろんこの世界の中空存在する青の存在であるが、それは神をも彷彿とさせる「天」であって、だから天丼てのは別称を与えるとすると「神丼」になるわけですよ。なんてな突拍子もないこと、おもいついたことをそのまま書くなんてもう最悪ですね。これからまた少し仕事というものをします。会社のパソコンでかいています。なんだかエクレアが食べたいなぁ。無限に増えるわかめ。
ノリが大事なんやで!ノリが!
日記というのは本然として、その日の出来事を綴るもの、だと思っているのですが私はそれを恥ずかしげもなく、過日の出来事なども記載しているわけであって、つまりこれは日記ではないということに相成ってしまうわけである。
それは困ったちゃん。
なぜなら日記という言葉以外にこのウェブ日記を形容する言葉がブログしかないわけであって、私はいささか「ブロガー」という肩書きに、なんとなくこの生活とは平仄が合わぬ心持ちがしてしまっている。
つまり私を形容するならばブロガーと言うよりはニッキストと言うべきであって、というのもやはりこのウェブ文章の集合体はだれかの役に立つウェブログなんかではなく、まじ日記。
それをブログだと思って読まれてしまうと読者の方と私の間の乖離が大きくなってしまう。
それは困ったちゃん。
なぜなら、日記のつもりで書いているので自分の世界を基準として文章構成をしているので、それはつまり私しかわからない書き方をしてしまうということもある、というわけであって、それを見て「読みにくい」なんて言われても、すみません。日記なもので。としか言い訳ができないわけである。
だからやはりこういうとき想定読者というものを想像するのが良いらしい。
てかそういうのをけっこう地味に実行している。私は主に音楽、育児、日常、の三点セットで日記を書くことが多く、それぞれ現行ブログを書いている人に向けて書こうかな、なんて思っている節があり、音楽はこの人を想定して、育児はこの人とこの人を想定して、日常はこの人に笑ってもらいたいな、なんて思いながら書いている。
それは良い子ちゃん。
プレゼントの価値とは
まぁ別に期待なんてしてないのだけれども、プレゼントってとにかく買えばいいってもんじゃないじゃん。なにが大事かってさ、その人がいないときにその人のことを考えてるってことでさ、だからさ、プレゼントを貰うってのは考えてくれた時間を貰うってことじゃん。それがうれしいんじゃん。それがさ、別に欲しいものじゃなくてもさ、あ、いろいろ考えてくれたんだなぁって思うだけで価値が出るじゃん。そういう基本的人情が欠けてるんだよ。私の母親という人間は。だからまじでそういうところが嫌い。昔からそうなんだよ。カネさえ渡せばいいと思っている。ふつうさ、ちゃんとさ子育てしてきたらさ、そりゃもちろん各々の趣向ってのはあるだろけどさ、2歳児が好きそうなもんとかわかんじゃん。なにが「お金だすからプレゼントきめて」だよ。おかしいんじゃねぇの。「なにがいいのかわかんない」って調べればいいじゃん。スマホで検索すりゃいいじゃん。それがありきたりなものであってもさ、そのほうがうれしいよ。カネだけ出してプレゼントした気になってんのかよ。どうかしてるって。そんなんで祖母面されても困るよね。だいたいさ、あんたが頼りにならないからこっちはふたりだけでがんばってんじゃん。なんかさ、みんなさ、けっこう子育てに親を頼りにしてるじゃん。それができないんだよね、こっちは。なぜならあなたは離婚してて現在も働いているから。たいへんだと思うよ。でもさそれは自分できめたことじゃん。でもそのあなたが勝手に決めたことでこっちは3人も迷惑を被っているわけだよ。あんたはさ、自分が稼がなきゃいけない、と思っていただろうけどさ、その間はさ、けっきょくばあちゃんに頼ってたじゃん。俺はずっとじいちゃんばあちゃんの家にいたからね。あなたが子育てに利用していたものを俺は利用できないからね。それは俺のせいでもなくあなたのせいですよ。まーだからわかんないんだろうね、子どもがなにが欲しいとかさ。まぁいいよ、べつに。期待してないし。
文章のカロリー
メインブログを更新しようと思って下書きをあさっていたら、自分の羞恥をかいてしまうような文章があって、たいへん心地の悪い思いをする。これは実際下書きのみでなく、公開した日記にも数多くあるのでなんとも言いがたい思いなのです。
しかし私のブログは、情報満載でみんなの役に立つウェブログってな感じでなく、ただの日記なのでそのときそのときに感じたことを、そのときそのときの文体で書くのが心覚だな、と思っているので、書き直し、かっちょ良く言うとリライトはしないままでいる。私の日記にとってはそれが正解かな、なんておもっている。
私はふらふらと人生を軸もなく生きている不肖な人間なので、その時分に読んでいるものやはまっているものにだいぶ影響されてしまう。これはみんなおんなじなんじゃないかな、とは思うけど、けっこうあからさまで読み直していて赤面するよな言い回しなんてのが出てくる。まぁ読み直しておもしれぇな、なんてもんもありますが、って手前味噌でたいへん恐縮でございますが。
しかし、なんか伝わってきますね。そういう過去の自分がかいたものってのを見比べてみると。こう、ひしひしとって言うんですか。あ、なんかこいつ調子乗ってんな、みたいな感じとかすげぇ出ているときがありますね。って今もですかね。恥ずかしいですけど。
いつかこの日記をみたとき、また頭をかくような思いをするんだろうか。わかんないけれども、とりあえず今は今できる書き方で書いていきたいです。そんな日記になってしまいました。
拳法の使い手
じつは私はすごい拳法の使い手で、めちゃくちゃ強いんです。
すごい拳法とな、どうしてに漠然と明言を忌避するのかってな、これじつは深淵なる理由というものがあって、一子相伝の私の流派は狭義であるので、その名を言っちゃうと身バレしやすい。
なぜにどうして身バレするとまずいかってのは、じつはこの拳法、かの徳川江戸幕府より暗躍してきた闇の拳法、まぁすなわち殺しの技術であるからして、いままで歴史のあらゆるターニングポイントで活躍してきた我らの流儀が、おいそれと平成の世に流通すると、あらゆる日本のパワーバランス、ひいては世界の均衡にも関わる自体なのであって、国から個人的に規制すら掛けられている水準の暮らしをしているのですからして、これがバレたら私は日本ではないどこか、列強国でないどこか、むしろ国境の無い世界の果てに亡命しなければならず、困るのです。
んじゃなぜ、こんなインターネットの片隅にちょっと記載してみようかな、なんて思ったのはじつはその統制された国家からの呪縛が解禁されたからなんですが、じゃあなんでそれが解禁されたかってーと、ふふふ、ここだけの秘密でおねげぇしやすよ、てんでいっちゃいやすけどね、じつはこの拳法の力が世に出回ることと相成りやしたんですよ、スマホのアプリで。今風ですよね。