そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

新月

 

目が覚めると6月だった。

日々を裏表しているような毎日である。しかし意識下にはいつだって月の境界線というものがある。新しい月になるたび、透明なフィルムをむいて、パッケージを破いたような覚えをおこす。でも結局はいつもの内容物であったりするから救えない。決して当たりくじなんて入っていない人生なんだな、と諦念する。

くしゃっと開けた6月にはおまけがついている。雨季という特典である。粘りつくような湿度が、むせかえるように心地悪く気管支を圧迫する。雨も、傘も、湿気も、なにもかもが鬱陶しくて、いやになる。

仄暗い水無月の憂鬱は、国民的休日の皆無も相まって、どこか疎ましげに思われる。それはきっとすべての生命体が煩うことであるのだなぁと低くなった曇天の空に思う。重たくなった空はいっそ落体して、この世界を飲み込んでしまえば、よほどのことが無いかぎり諦めがつくと思う。

6月10日がやってくれば、それは14年の号砲である。もう14年。紙雷管はすでに湿り気を帯びており、軽快な渇いた音は響かない。通例的な儀式として鳴らすけれども、それは卑小であって、重く鈍くすこしだけ空気を振るわせるだけである。

どんなに倦怠が募っても、しかし新しい日々の始まりであることは不動の真実である。やまない渇仰は、しきりに清澄な心であって、けして煌びやかな眩光は放たないとしても、それは上記でいう「よほどのこと」であると思う。

それは限りなく個人的なのわがままな念願かもしれない。しかし世相を鑑みてもそれはシワのない真っ白なシーツのように思う。我が家のシーツはダークブラウンだが。