いちご刈りではなくいちご狩り
クリエイティブなことがしたいなぁ。やっぱほら、おれってものづくりの人間じゃないですか? なにかつくってないと死ぬってゆうか。いうなれば創作のマグロね。だからほとばしるオリジナリティを具現化しないといけないんだよねー。
みたいな驕慢なスタンスからの物言いがすごく好き。もう身の毛のよだつほどに「おまえなにさまだ」とおもう。
妻がいちごの苗を頂いてきた。それがたしか、えーっと、過去の日記をさかのぼると師走ですな。師走にいちごの苗を植えた。
それが実った。かいがいしい妻の水遣りによって、ついに果実を結んだのである。祝着至極。おめでとう、望月家。ありがとう、望月家。
そんないちごが仰山クリエイトされたので、食べた。うまかったそうだ。おれ? 食ってない。ほとんど息子が食った。あと近所のキッズ。彼らは、いちごの培養プランターに鈴なりに馥郁し、いちごを狩ったのである。
狩る。いちご狩りの狩りには「けものへん」が付いている。どういうことやねん。おれはいままでそうおもっていた。そんなちいさなことを勘案しているからいつまでもうだつがあがらぬのだよね。知ってる。
しかし、「いちご狩り」の狩りについて、ようやくおれは判然とした。つまり、これはハンティングの心構えが肝要である、ということである。どういうことか。次の段落へつづく。
いちごの培養プランターに群がる少年少女たちの貪婪なアティチュードは、まさに毛だもののようであった。肉食獣のそれであった。まさに「狩り」であった。我先にと色艶のよいいちごを先制しようとしていた。すなわち、生きるか死ぬかの瀬戸際がそこにあったのだ。
植物を採取するばあい、「刈る」という字がおれのなかで湧く。しかしそこには闘争心というものがない。とても牧歌的だ。田園が浮かぶ。茶がにあう。そんなうかうかとしていたら、最後の一摘みまで狩られてしまう。
いちご狩りは競争である。生死をかけた闘いがある。だから「狩」という文字をつかう。明日を生きるために、ひとはいちごを刈るのではなく、いちごを狩るのだ。
※追伸 「狩る」には植物を取りに行くという意味もある、とかいうコメントはいりません。