そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

こんがらがってる日々のように

 急に言うなよ。とおもうことが多々あり、人生とは艱難辛苦の連続やで。ほんま。保育園から「長袖の白の無地ティーシャツと黒いスパッツを準備せよ。おゆうぎかいでつかうから、月曜までな」といわれて度を失った。もっとはやく言えよ。

 そういうわけで無印良品という瀟洒なよろずやに行った。土曜。きんじょの新設の商業施設にある無印良品なんだが、そこはひとの気配もまばらで、これは確実に商業的にしっぱいじゃん、とおもった。すいてておれは好きだけど。

 スパッツはバースデイという子ども専門店で購入した。そのバースデイは玩具なども取り揃えている。息子は仮面ライダービルドの変身ボトル「フェニックスロボ」がほしいと言い出した。八百八十円。けっこうなランチが食える値段だ。

 悲しみの神が受肉したかと思うほどの凄愴流悌、滂沱たる涙をながしながら慟哭するので、ここはひとつ約定しよう、そしたら買うわ、という話しで落ち着いた。

 その内容とは「いまから買い物をするから静かに付き合うこと、おトイレでうんちするのをがんばること、家につくまで玩具は開封しないこと」というものだった。うんち以外はうまくできた。さいきんちょっと金を使いすぎているのでALの新譜は延期した。まぁおれの人生なんてそんなもん。

 話しは変わって、いま自治会で班長をやっている。妻がおもにやってくれているのだが、そろそろ次期班長を決めなければいけない。どうしよう? と相談した。

 籤引きがいちばん公平かもしれない。しかし、急に「来年班長ね」といわれるよりも、持ち回りで順番に来たほうが心の準備ができる、という結論に至った。でもじゃあ誰にやってもらうのか。あと同時にこの自治会に回ってきた愛育班というものの係りも決めなければいけない。めんどくせー。

 新築街に住んでいる。ゆえにそういった持ち回りの制度がまだ確立していない。しかし新築街のメリットは近所のひとも同じような幼児がいるのでタイミングによってみんなで近所で遊ぶことができる、というものである。ようたくんは楽しそうだった。

 さいきんレスポールジュニアスペシャルというギターのリフィニッシュをしている。失敗したのでまた塗装をはがしているところ。その工程を近所のひとに見られていた。エレキギターなんか弾いている、という不良のイメージがついたらどうしよう、なんて思わないが、「どんな音楽やってるんですか」とう質問がめんどくさい。とりあえず「ゴリゴリのメタルです」と答えるつもり。革ジャン買わなきゃ。

 お昼寝をしたら夕刻になっていた。つめたい夕風がガラス窓を叩いているようだった。オレンジと群青がグラデーションした天が窓枠に囚われてまるで絵画のようだった。穿たれた弧月がうつくしさと幻想加減を倍増させていた。

 そういやお弁当用に邪悪チキンというものを精製した。目の前で有精卵を破壊されたニワトリの邪念が封じられているらしい。今日はそれがお弁当にはいっている。たのしみ。散文的な日記。

「好きかも」って卑怯だよな

 昨日から禁酒した。もし今日飲んでしまえばこれはただ「昨日飲まなかった」という事実になってしまうので今日も飲まないつもり。持続的に飲まない。それが禁酒。あたりまえだよ?

 妻が寝てしまったので音楽を聴きながら家事をしていた。ロバートクレイのクリーンなストラトキャスターの音を聴いて、ボンイヴェールを聴いた。耳がさみしいなーとおもっていたら、アップルミュージックのおすすめ欄に、エンジェルズアンドエアウェイブスというのがあって、なんとなく聴いていた。好きかも。とおもった。

 そしたらこの「好きかも」というフレーズが妙に鼻についた。

 「好きかも」イコール「好き」、ではないと思う。この公式は成立しないんじゃないかな。譲歩してニアリーイコール。好きかもノットイコール好き。

 おれのなかで「好きかも」というのは、※「好意はもっている。でもそれって暫定的なものであって、ちょっとまだ自分の本当の気持ちがわからない。もうちょっと時間が経ったらあなたのことが分かるかもしれない。そのときほんとうに好きか嫌いかわかる気がする。今はたぶん好きなの。これはほんとうの気持ち。でもひとってわからないじゃない? それはあなたのことだけじゃなく、私自身についても。おたがいの距離感が醸成されてはじめてやっとわかることだとおもうの。どこかに気持ちのエポックメイキングを置きたいの。ううん、ちがうの。嫌いって言ってるんじゃない。それにこの気持ちが宿命的に冷めてしまうもの。そんなこと言ってない。ただ自分自身の回答に確信がもてないの。だから好きかもしれない」って感じですっごく曖昧模糊な意味だとおもっている。

 でも、いうなれば「好きかも」と口外することはイコール「愛の告白」みたいな感覚はだれしももっているとおもう。

 深田恭子*1うるんだ瞳で「好きかも」なんて言われたらだいたいやばいじゃん。うわっ! まじかよ! こいつおれのこと好きなのかよ! やベー! ってなるじゃん。

 でも「好きかも」ってゆうのは上記の※なわけであって、「これから好きなのかどうか確かめます」ってことじゃんね。こういうばあい後で「いや、好きとは言ってないじゃん」なんて言われておしまいなんだよな。くぅー、小悪魔め。

 でも、って「でも」が多いんですが、やっぱ男なら勘違いしちゃうよなー。そういう意味で「好きかも」って卑怯なんじゃないかしら。

 そうなんだよ。ひとってひとから好意を伝えられたら、そのひとのことをちょっと好きになっちゃうんだよね。でもさ、上記の※のごとく「好きかも」という科白はじっさいもんだい純然たる好意ではないわけであって、「好きかも」と放つことにより相手の出方を窺って脈がない、と判断したばあい、「そっかー、あ、やっぱ好きじゃなかったかも。勘違いすんなよ」なんていうことも出来ちゃったりするわけじゃん。うわ、「好きかも」ってめちゃくちゃヤな科白!

 そんなことを考えていたけど、おれもかつて高校生のときに女性に「好きかも」と言ったことがあることを思い出した。「だからそれをたしかめるために付き合ってほしいんだ」みたいなことを。結果、その女性と付き合ったんだけど、それがうちのあさみさん。いまの妻ですね。

 そんなかんじでくだらないことばかり考えてしまうので酒は飲んだほうが実は健康的だったりするかもしれない。でも、こうやって考えごとをするものけっこう好きかも。

*1:おれが女性とロマンスするときの空想上のスパーリングあいてはだいたい深田恭子

VS試食

 なんだかめんどうな仕事をふられそうになったとき、「まッたまた~」と相好を崩しながら、「冗談がおじょうずね」みたいな感じで云うと、けっこう回避できることがある。 

 いわばこれは現代社会を生きるうえでのサバイバルテクニックである。むろん、その環境における自身の立場、役職、キャラクター、人望、今後の出世街道などを深慮遠謀したうえでおこなったほうがよい。

 そういったワンフレーズで世界を切り拓く。ことばの魔力だ。さいきん試食コーナーで最強の一文を発見した。

 まず試食についてである。土曜日曜のスーパーマーケットなどで爪楊枝にさして少量の食品を分配するあの試食である。

 わたしのなかで試食というのは敷居が高い。なんというか、「食ったら買わなきゃいけない」みたいな責任が生じてしまう。

 そんなことべつだん試食販売員は気にもしていないと思う。それらが売れたって販売員の給銀がアップするわけでもないだろう。

 なのになぜか試食を食うと、その場に強力な磁場が発生し、「これを買うまでは離れてはいけない。そんな気がする」なんておもってしまう。そのうち販売員の口車にのせられて、たいして必要のないものを購入してしまう。なんでなん。

 過日。ヤクルトコーナーで同株式会社製のジョアという飲料の試飲をおこなっていた。息子が飲みたがったので頂戴した。販売員が「いかがです?」と妻に云う。気の弱い妻は「どうしようかなー」なんて云う。

 そう。試食をいただくさい、きほんてきにこちらも「そもそも買う気でいますよ」みたいなオーラを帯びることが、一種の礼節となっている。これはオリンピックに向けて外国人に説明をしたほうがよいかもしれませんね。

 そうして私に尋ねてきた妻に、販売員は「ヤクルトも本日お安いですよ」と云った。この発言はまさに販売員が墓穴をほったという形になった。

「昨日、ヤクルト買っちゃったからなー」

 これである。この日の前日、じっさい私は息子ようのヤクルトを購入していた。ゆえに消費期限などを考慮すれば、まじでリアルにいらなかったのである。

 この発言により、試食という強力な結界からたやすく脱出することができた。と、同時に販売員から「あ、そうなんですね、すみません。いつもありがとうございます。あ、あ、あ、でも昨日と同じ値段です」と云われた。

 まぁ私がヤクルトを購入したのは他の店舗だったので、正規の値段で購入したのだが、販売員からすれば「特売の値段で購入していないお客様を、その差額によって損失を生んだ、などと思われて不幸にしてはいけない」というサービス精神システムが発動したもようであった。

 そんなことはどうでもいいけれど「昨日買っちゃったからなー」はけっこう使える気がする。試食という呪縛にからまったさいはがんがん使用していこうとおもう。

土日のこと

 土曜。妻が午前中しごとに行っていた。三歳児とふたりきり。ひどく晴れた日であったが、触れられそうなほどの重みをもった冷気、それを北風がはこんでおり、世界に終末のような冬が立ち込めていた。

 これでは外であそべない。法律で禁じられている。だからこそ我々一族は、お菓子を食べながらテレビを観賞することにした。

 録画したものを観た。ピタゴラスイッチという番組である。さいきん同番組内で「びーだまのびーすけ」というシリーズを放送していたのだが、これがまじで超びっくりした。すごかった。感想がそれしかない。

 デザインあという番組もあるのだが、なんというかすさまじい瀟洒であって、こんな番組を観るような洒脱な家庭を築きたいものだ、とおもった。

 あいかわらず仮面ライダーに惑溺沈湎している。地上波ではビルド、アマゾンのやつではフォーゼというシリーズを観ているらしいのだが、いつも適当に主題歌を歌っている。たのしそう。

 ウルトラマンジードも観終わった。タツオミくんはたぶん大きい声がだせないひとだな、とおもった。世の中には一定数「大きい声がだせないひと」というのがいる。俳優というか、ヒーローとしては致命的ではないかな、とおもった。

 そういえば、たしか私が幼少期のころ、ちょうど仮面ライダーウルトラマンも終了してしまった時季だった。あのころは特撮ものよりもアニメものがおおかったイメージがある。

 夕餉は餃子をたらふく食った。ビールがうまかった。ビーフィーターがなかったのでゴードンのジンを買って飲んだのだが、これもうまかった。

 日曜。息子が「アメリカに行きたい」といいだした。流川かよ、とおもったがどうやら彼のいうアメリカは室内遊技場のことであるようだった。よく観ているブリッピーという墨夷の動画で、四十がらみのアングロサクソンのおっさんが、室内遊技場であそびまくる、というマニアックな映像を観たがゆえにの発言であった。

 しかるに、近所のバリュープラザまで行き、六時間みっちりあそんだ。私はぼーっとしていた。けっこうひとり遊びができるようになった。「ひとりで遊びたいからパパついてこないで」と言われた。俺の子だな、とおもった。たくさんお酒を飲んで寝た。とくに感想もない一日だった。

古いアパート

 駅に行くまでの経路に、古ぼけたアパートがある。三階建築で、鉄の階段が外についていて、二層式の洗濯機が戸外にあって、ドラマで刑事が張り込みをしていそうな、やくざが愛する女と一緒になるために、カタギになるために、自首して、刑務所に入って、出所して、それまで女は健気に待ってくれていて、「お互いに歳とっちゃったね」なんて言いながら、つつましくふたりで暮らしはじめて、あんまり贅沢はできないけど、クリスマスにはちいさいケーキをわけあってたべて、部屋はせまいけど、幸せはいっぱい詰まっていて、ある日、女が「できちゃったみたい」なんて言い出しそうな、そこからまた幸と不幸のふたつの目しかないサイコロがころがりそうな、そんな昭和の空気感がある、おんぼろのアパートである。

 なんだか馬鹿にしたような書き方をしてしまったが、俺は幼少期、こういうふうなアパートに住んでいた。通り過ぎるたびに、すっごくなつかしい感じがする。

 子どものころ、自分の家が貧乏だなんて気がつかなかった。あ、いまはちゃんとじぶんが貧乏だって気がついています。それは母が懸命に働いてくれていたからだとおもう。母は離婚したのだが養育費などをもらっていなかった。ゆえに母子援助みたいなものは受けていたとおもう。そういえばよくふたりで市役所に行って、帰りにその屋上の喫茶店で、静岡の街を見下ろしながらクリームソーダを飲んだ。なつかしい。

 こういうアパートってフォーマットが決まっているのか、どこも同じような感じで、見かけるたびに、昔の思い出が八ミリフィルムみたいな褪色した映像で、脳内のスクリーンに映写される。

 いやなこともあったけれど、こうして記憶の映画館みたいなかんじで観る思い出は、どうやら滅菌消毒されているらしく、とてもきれいなものばかりで、あぁ俺は幸せだったんだなぁ、と気がつく。

 そのアパートに息子とおなじくらいの歳の子どもがいる。先日、それを遠巻きに確認した。きっと息子と小学校の学区は一緒だろう。

 また嘲弄のニュアンスが出てきてしまうのは、大人になってからどっかで自分の家が貧乏だったことに負い目を感じているからだと思うのだが、息子がもし、この少年と友人になったさい、この子の家に遊びにいったとき、「うわー、おまえんち貧乏だなー」とか思うのだろうか。いや、きっと思わないだろう。

 俺が鈍感だっただけかもしれないけれど、ちいさいころってあんまり家が貧乏とか裕福とかかんけいなかったような気がする。俺の友人はけっこうみんなデカイ家に住んでいたけれど、うちが貧乏でもみんな仲良くしてくれたよなぁ、とかおもって、ってかそういう意識なかったよなぁ、とかおもって、貧乏でいじめられるとかドラマのなかの話しだけだよなぁ、とおもうのは俺の友人が好いヤツばっかりだったからなのか、とか思って、それもまた幸せだったとおもう。

 あまり社会的なことは言いたくないが、金がなくて子どもを育てるのは子どもがかわいそう、ってのはいまの時代そうなのかもしれないが、それだけで子どもを諦めてしまうのはもったいないよな、なんておもう。まぁみんないろんな事情があるのだろうけど。

 金とか、権力とか、名誉とか、体裁ではない、ほんとうの幸せってあるよなぁ、というのを古いアパートを見てかんがえてしまう。こうおもうことは、心のどこかで古いアパートを見下しているのだろうか? そんなことないと思う。ないと思いたい。なんというか、すくなくとも俺が、古くてせまいアパートに住んでいたころをおもいだすと、とっても幸せだった。そんな記憶があるんですよ。

静かな日々

 五連休。ずっと三歳児とともにすごした日々だった。ってゆうか妻もいたんだけど、なんちゅうか妻ってもうすでに半分俺だから、ずっといっしょにいてても別段「あぁ、いっしょにいるなぁ」ってかんじがしないっすね。

 年末年始だからといって三歳児の生活のバイオリズムが変革することはなかった。朝が始まれば起き上がり、夜が深くなるまえに眠る。われわれ親にも同時に、そういう日常が静かにとおりすぎていった。

 トイレトレーニングをがんばった。むろん私ではなく息子である。小用のほうはだいぶ尿道のコントロールができるようになり、「行きたくない」と言うのだが、行けばかならず出すことができる。ほめた。小用を称揚。なんつって。

 ちかくの公園に行って天空に凧を放った。息子の心気は昂ぶりを見せた。はしった。たのしかった。しかし加齢による足腰の弱化はすさまじく、その翌日の夕刻。腿のすじなどに苦痛を覚えた。

 そういえばトイストーリーを見た。無印とその続編たる「2」である。息子もよく見ていたし、私もおもしろいなぁとかんじた。「3」も見たい。泣けるらしいが、アンディが大人になったとき、という伏線がすでに2でちりばめられているのだね。

 大晦日という意識下のもとで、テレビ番組に翻弄された。やはりガキ使を録画しておいた。それを見たのだが、なんというかそんなに魅惑されるものでもなかった。というかあれは一年のスキャンダラスな事象の振り返りだな、とおもった。毎年恒例という習慣はひつようなのかもしれない。

 近所も閑散としていた。いつもは聞こえてくる子どもたちの声も響かなかった。みな、実家に帰省しているのでしょう。私たちには帰る場所なんてないのよ。ふたりでがんばるしかないのよ、って夫婦の絆は深まった。

 そういやぁ、あれっすわ。ニトリでソファーを購入した。いままでは「息子をのびのび育てたい」という念願から居間にソファーを設置せずにいたが、あまりにものびのび育てすぎた結果、超絶元気な放縦不羈な男子になってしまったために、ソファーの設置をしよう! すこし居間を狭くしよう! とおもった。ニトリでいかんじのやつが安かった、というのもあるが。

 ギターのリフィニッシュをしようとおもった。しかし、分解途中、ポット裏のはんだが溶けない、ということに気がつき断念している。現在調査中。

 いろんな人に商品券をいただく機会が多い。俺は愛されている。ってゆうか外面のよさだけでなんとか生命を維持している。そんな商品券をかぞえたらビール券が二万円ほど、その他のやつが五、六万円ほどあった。酒屋にいってめちゃくちゃビールをかった。ウイスキーはグレンリベットという、昔たまに買っていたスコットランドシングルモルトを購入した。青りんごのような果実味が特徴だ。うまい。うまいが、高額な酒はやはり肌にあわない。

「おまえはいつもそれだな」

「おれにはこれくらいの安酒がちょうどいいのさ」

 なんて科白を言いたくなったが、これはたぶん三下の科白で言ったら次回に死ぬやつだな、とおもった。静かな日々をおくりたいだけなんだ。そういうことを初詣のだるま市で願った。

カカオ二部

 

 妻から衝撃的なカミングアウトを聞いた。カカオには二部がある、ということである。ふふっ、ジョジョっぽい。

 ことの発端はパンに練り込まれているレーズンやらチーズの異物感についてはなしているときだった。妻は、

「あたし、その異物感が好き!」

 というのである。ちなみに私は比較的シンプルプレーンなものが好きなのであまり好みではない。が、しかし。重ねた馬齢の妙により、なんだかその異物感のことをちょっと好きになってしまったのかもしれぬのである。この歳で恋。

 そんななか、妻が藪から棒に「カカオ二部も好き」と言ったのだった。

 村上ショージというひとのギャグに「なにを言う、早見優」というものがあるが、まさに虚を衝かれた私の胸裏にうかんだのはそれだった。なにを言う、早見優北天佑

 むろん、カカオとはチョコレイトの構成物である。ガーナという板バージョンのチョコレイトは赤い包装紙につつまれているのだが、その赤い包装紙のむかって右うえに、たぶんこれがカカオだろう、とおもわれる果実がペイントされているのだが、つまりこれが私のなかのカカオの具現であって、じっさいの実物はみたことがないのだが、まぁ今のインターネットが普及した時代では、じっさいに実物をみたことのあるもののほうが少ないわけで、べつだんそれを苦言される必要はないのだと思われるが、しかし、この私の知っているカカオは二部なのか? ってゆうか二部があるのならばもちろん一部もあるってことじゃんね? ってことは三部は? って先を考えるとややこしくなるので、いったん、ということで、カカオには一部、二部まである、と仮定したい。

 恥をしのんで記載するが、私はチョコレイトの精製方法を知らない。ゆえにカカオがどのようなプロセスを経てチョコレイトになるのか、ということが判然としていないのだが、たぶん砕いている。カカオパウダーという表記をチョコレイトの構築物として認識したことがあるからだ。つまり、カカオはパウダー状態になってチョコレイトになるのだが、俺は思う。このカカオパウダーというのはきっとカカオの最終形態だと。ということはだね、このパウダー状態になる前に二部となっているはずなんだ。じゃあいつ? どこで? だれがそんなことしたの?

 しかし前述のように私はほんとうのカカオを見たことがない。ガーナチョコレイトのパッケに抽象的に描かれた絵画しか知らない。無知とはこんなにもおろかしいことだったのか。もっとちゃんと勉強しておけばよかった。もっとまじめに先生の話しを聞いておけばよかった。さすればカカオについて、ちゃんとした知識を持ち、その二部構成の内容を把握、チョコレイトの歴史から、精製方法における近代科学までを学問し、まさに吟味、チョコレイトほんらいのありがたみについて感じることができたはずなんだ。マイクログラインド製法はロッテだよ、おばば。なんつう漫画の知識しかない私はいままでの人生をひどく恥じた。ってゆう日記です。おもったより長くなりましたね。

三部へつづく。