そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

なぜ人はゴキブリが怖いのか

 

 過日。拙宅にゴキブリが推参した。 おのれの矜持のため申し上げるが、これはけっして我が家の清掃不備などではない。そう思っている。ではなぜゴキブリが推参したのか。いちおう説明すると、おそらく拙宅裏にあるひなびた古家屋の破壊活動により、拠り所を失った虫たちが潰走したのだと思われる。

 妻が「ゾンビより怖い」と申していた。さいきんウォーキングデッドを見ているからそんな会話になったのだが、でもそれでも死を招く死であるゾンビよりも、あんなちっぽけな昆虫が恐怖とは、これいったいいかなる禍事であろうか。

 巷間の口上にも、そういったご意見、ご感想がのぼるのを私は知っている。みなゴキブリが怖いのである。私はここに一種の憶測を記載しようと思う。

 まず、ってゆうかもう実直に言ってしまうが、これは宇宙人による洗脳だと思う。地球外生命体。それは地球の研究のために送り込まれた、どこか遠くの星に生まれた、地球の科学とは雲壌差のテクノロジーをもった、宇宙のいきもの。彼らがこのゴキブリの担い手であり、産みの親だとおもう。

 畢竟、ゴキブリというのは宇宙人の地球探索装置なのである。ゆえに人の住居などに潜伏する。人類を観察しているのである。その生体を、触覚の先に付属したカメラから、冷たいところは青暗く、あたたかいところは赤明るく見える虹色の映像を通して、我々を常に見張っている。虫なのに人の家にいるのって、おかしいとおもいません?

 しかし。ただ闇雲に人里に潜入させては、「あ、虫だ。殺す」となって人間に踏み潰されてしまう。これはこまった。そこで宇宙人は脳漿をしぼった。大きな頭をかしげて、瞼の無い巨大な瞳は乾燥をふせぐために、にゅるっと爬虫類の目のように、その上下からうすい透明な皮膜を出している。ひらめいた。ゴキブリに恐怖を感じる波動を宇宙から地球に照射すれば好いじゃん! そしたら盲滅法にゴキブリを排斥されずに済むじゃん! それってよくね? と思ったのである。

 そうして人は、知らぬうちに宇宙人のアルファー波みたいなものを受けて、ゴキブリに恐怖心を抱くようになってしまった。ゆえに人は、あんなちっぽけな虫けらに戦慄するのである。とくに女はその影響を受けやすい。たまに効果がいまいちな人間もいるので、もしいたら私までレンラクヲクダサイ。ジッケンノさんぷるニサセテイタダキマス。

 そういって俺は瞳の上下からうすい皮膜をだした。ドライアイを防ぐために。

 

無限の絶望

 

 自分のブログや日記に書く事象を「ネタ」だなんて思うほど、たいしたことは書いていないのだけれど、じゃあそれはなにか? と問われれば、ネタと形容せざるをえないので、便宜的にネタと呼称しますが、なんで書いていないときには無限に発生するネタが、こうパソコンの前に立つと、余燼も残さず消滅してしまうのは、ほんとなんなんでしょうか。謎ですね。小松未歩

 

 あ、これネタにしよう! と思ってメモすれば良いのでしょうけれど、その瞬間、つまりネタが脳内で発生した瞬間は「なんてすごいおもしろいことを思いついてしまったんだろう! バズるな! これは!」と思っているものですから、メモをしようにも裏腹の肝胆では「こんなおもしろいこと忘れるわけがない!」と思っていて、メモなんかする必要ないんですね。ってこう口語的なニュアンスは一体誰に話しかけているんでしょう、俺は。いや、これはべつに口語的に書いているブログ類を卑下しているわけではなく、俺は誰に向けて話しているのか! という自己認識的な話であって、ほんとこうして保守的になる自分が憐憫です。

 

 つまり、なんでメモをとらないのか。ってゆうことやねんけど、って関西弁ってすごいですよね。こないだ、って「この間」を略した口語的な接頭副詞なんですけれど、これもすばらしいですね。まるでしゃべっているかのよう。で、こないだ。ある小説を読んだんですけれど会話が関西弁なんですね。私はこれちょっとずるい、と思いました。

 

 標準的な言語での会話を文体にすると、なんだか無機質なんですよね。それだけでは人物を構成できない。かといって会話中に流れる空気みたいなものは文体に表せない。この空気感が、その口語感がなまなましくその人物を物語るんですね、関西弁だと。いまや関西の芸人さんだらけのテレビジョンを見てると、この関西弁のイントネーションやニュアンス、空気なんちゅうのは一般的な概念となっている気がすんねん。だからな、思うに。読み手がそのイントネーションやニュアンスを想像してしまうことによって、一定の方向性を与えられる、っちゅうことやと思う。それは行間の封滅か、と勘違いされるかもしれん。ちゃうっちゅうねん。口語はリズムやん。それが、読者側で用意してくれはるんは、人物の創造やねん。それはすごいことやと思う。東京語やったらこうはいかん。だから、ずるいねん。関西弁は。

 

 なんて思ったんやけど、まぁなんで俺がふだんメモとらんか、ちゅうたら、ま。慢心っちゅうやっちゃね。こないして関西弁で日記書くっちゅうのもええな。千文字越えてしもうたわ。でもほんま、俺、駿河の国の生まれやねん。ずら。なんていう絶望。また。

 

たしかに未来が昔にはあった

 

 まさか! と思うことがたくさんある。そりゃそうだ、と思うのは想像力なんていうものは個人の裁量を出ないものであって、現実はそれをトーンッと越えてくる。そんなことがあった。つまりなにが言いたいのか。高枝切りバサミを購入したのである。

 拙宅の玄関に一本の木が屹立している。名前もしらないその木がぐんぐん伸びて、玄関のドアに干渉するようになった。邪魔なんですね。

 ということでアマゾンでそれを購入した(アマゾンというのは南米の熱帯雨林地帯ではなく、同名のネット通販を取り扱う業者のことです。南米のアマゾンに高枝切りバサミなんて文明の利器があったら、森林伐採は熾烈を極めるでしょうね。まぁほんとうにアマゾンまで行って購入していたら空港の税関あたりでひっかかるでしょうが。ってかわざわざそんなとこまで行かないわ。ってごちゃごちゃうるせぇ!)。配達された。土曜日にそれをした。切り方がわからず闇雲に切った。辻斬り。なんだかわびしい感じになってしまった。ただ、それだけの日記。

 しかしまさか私がこのような物品を購入するとは努々思わなかった。それははじめてベースを購入したときにも似た気恥ずかしさがあった。自分にまったく縁のない、と思っているものであっても、ふとした瞬間にそれと邂逅するときがある。なんだか不思議だ。

 むかし想像していた未来はもうすでに現実になってしまっている。今回の枝切りバサミのような予想外のことも多々あったが、予想内のことでも進行している。おそらく俺はここまでの男だろう。でも、平凡な人生でなにが悪い! といえるほど、そこそこの暮らしをしている。あ、カネはない。

 

MCで対バンの曲を否定するのはクソださい

 

知らない人は知らないくていい話題なので、ってかクッソくだらない話なのでこっちに書きますが。

Oというミュージシャンがある主張を曲で表現しました。そしてOの出演後の対バン、Yという楽団がMCで曲の主張に対し「そんなことない」という反駁をしました。おれはこのYというバンドがクソださいな、と思いました。

批判はしてもいいと思います。でも、それがMCって、クソださい。なんのためにギターをもっているのか。おまえの音楽に主張はないのか。相手が丹精込めて創った楽曲をMCのひとことで片付けるのか。バンドをやっている意味がない。歌をうたっている意味が無い。主張は曲でしろ。歌詞や音楽的な部分でアプローチをしろ。それが出来ないのであればどんなかっこいい曲をつくったって、しょせん形骸化した音楽だと思う。

ロックは自由な音楽だと思う。その名称は、ロックンロールというのはアランフリードという白人のラジオDJが、黒人の軽快なリズム&ブルーズを流すときに放った言葉だが、ロックというのは「認識不可能な音楽」に対しての認識付けのための名称じゃないのかな、なんて思う。

だから当時白人に膾炙していなかったその楽曲群が、ジャンル分け不能だった音楽が「ロックンロール」と呼ばれだしたのは、必然的なことなのかもしれませんね。いまではそのロックンロールということばはオルタナティブに鞍替えされていますが。

まぁだから、ロックは自由な音楽だと思う。なにをやってもいい。音程をはずしても、リズムを狂わせても、かっこよければそれでいい。またロックは自己表現と商業主義のはざまで揺らぐエンターテインメントだと思う。だからパフォーマンスなんてのはとても大事だ。

だからステージで生きたコウモリをかじったり、チェーンソーで自分の足を切ったり、ライブハウスにショベルカーで乗り込んできたりしても良い。ああ、なんて懐の深い音楽なんでしょうか。でも唯一やっちゃいけないのが、曲に対して口頭で批判することだと思う。しかもそのミュージシャンとそのファンがいる眼前で。

なぜか。理由はクソださいから。どんなに自由でもロックであるならば、かっこよくするべきだ。それが、その反抗が口頭って…。俺は憐憫で仕方ない。ロックがただの標識に、ジャンルわけになってしまったのも首肯できる。いや、これはインスタ栄えする音楽と揶揄されてもしかない。だってその音楽には主張がないんだもの。

ほんとうに言いたいことがあるなら曲でしろ。それがミュージシャンだと思う。音楽なんて作り物だ。虚構だ。でもそこには感情をゆさぶる真実がある。それを魔法と呼ぶのならそうだと思う。それを脳科学的に証明すれば科学だと思う。ただの音楽ならただのおんがくでもよい。世界は曖昧だ。でも、己が感じること、感じたことというのはすべてだ。その全ての淵源が音楽にはある。俺はそう思う。

曲というのは創った人間にとって、子どものような存在だな、と思うことがある。おれはこれを子育てしていて気がついた。こどもが他のこどもと遊んで、誰かから認識され、個として存在しているとき、ひとりの人間として存在したんだなぁと感慨深くなる。

それをかつて曲で思ったことがある。お客さんが、おれの創ったメロディと歌詞をその唇から放ってくれたとき。おれの曲がひとつの世界に存在したんだな、と思ったことがある。すごくうれしかったし、まだあのときの感覚は忘れていない。

その自分にとって大事な音楽を批判される。そんなつらいことはない。もちろんそれは聴衆に揶揄されてもしかたない。だってロックもしょせんは客商売だからだ。でも、それを同業者にそしられるなんて。ってか、ほんとうに愛をもって曲を作っているひとならば、だれかの曲の主張に対してインスタントな口頭で批判するなんて出来ないよ。

ちなみに俺は、対バンのMCでディスられたことがある。「あんなの暴れているだけのバンドで音楽じゃねぇ」みたいなことを言われた。くやしかった。でもやつらの音楽のほうがクソだったから無視した。憎しみや暗黒面が強くなればなるほど良い曲がつくれたからだ。

MC同様にインタビューやらSNSで揶揄っているやつらもクソださい。こういうのを見ると、ほんとロックってただのジャンルになってしまったんだな、と思う。反抗ってそういうことじゃねぇだろ、と思う。

かつてディスられた記憶と、掲示板をあらされた記憶がよみがえったので書きました。そのあとの云々かんぬんなんてどうでもよい。発端である口頭で曲をディスるのが、まぁクソださい。そんなことをするやつは音楽家じゃない。そうおもいました。

 

酒をのんであばれた

 

ひさしぶりに。ウイスキーを購入して飲んだ。そんなに高価なものではない。IWハーパー。愛飲しているのはジャックダニエルだが、ハーパーとワイルドターキーも良く飲む。ジャックダニエルを飲むとモーターヘッドのレミー、ハーパーを飲むと次元大介、ターキーを飲むと花村薫の幻影を自身に投げてしまう。

痛飲。ひどく酩酊。世界がぐにゃぐにゃになってとても楽しい気分になった。ひどく心を憔悴させるような物事に鈍感になった。聖書によると、人間は泥から生まれた、なんて寓話があるが、そんな感じで俺は泥になった。ぐでんぐでんの、とろんとろんの、ぶわっぶわで、痛みを伴うささくれ立った現実など、いまの万夫不当の豪傑たる俺には無だ、と思った。

俺の脳細胞はほとんどアルコールによって壊滅させられている。酒を飲んで馬鹿になるのは、その須臾の間だけではない。いちど破壊された脳細胞はもう恢復しない。考える力というものがあるのなら、酒に耽溺する前にくらべれば半分にも劣るだろう。

でもではなぜ。俺は酒を飲むのか。

生きているとなんだか、生命と言うものに無味乾燥を覚える。おれ、なんで生きているんだろう? という宇宙の真理に迫ろうとする。ここで断りをいれておきたいのだが、俺はそんな精神的な癇癪などもっていない。きっと誰しもが抱く、生きる意味をなんとなく見出せずに人生の空白について沈鬱となってしまう。

酒を飲んでいると。そんな瑣末なことがどうでもよくなる。切迫する硬質な懊悩が、感覚とともにどろどろにとけてやわらかくなり、ぶつかっても、もう、ぜーんぜん痛くない。放縦不羈に振舞って、泡斎念仏に躍り狂う。一瞬の享楽。終末に待ち受ける、忽然と立ち上がる虚無。そんな繰り返しが人生ならば。

もっと情熱的に語るべき何万語のことばたちがあるはずなのに、腐った脳漿はすでに汚水だ。いたずらに過ぎ行く時間の流れに、ただただ時代の表現を選定しているだけなのかもしれない。無意味な文章がかけないのは、単語で動詞をえらんでいるから。おお、神よ。俺に冥加の至りを! と神社に賽銭。するとどうだろ。晴天から一筋の霹靂が射し、それは俺を貫いた。紫の光のなか俺はひとつの人型の影になり、中空に浮遊した。気がつけばなにも変わらない日常が目の前に立っていた。いったいどれくらいの時間がたっただろうか。いや、そんなに経っていないはずだ。そう思うのは、左腕に巻いたジーショックがそれほどすすんでいないことから察せられた。ジーショックは稲妻にも耐えうる。カシオすげー! しかし、なにかがちがう。掌をみつめると、ジリリッと迸る具現化したジグザグの発光体。そうか、俺は、いま帯電している。エレキマン。不死身のエレキマン。できるかな? とおもいスパイダーマンが蜘蛛の糸を放出すつような手つきをしてみた。放電。その雷は眼前の大廈高楼に放たれ、すべては瓦解した。崩壊するビル群。鳴り響くジェイアラート。北朝鮮のミサイルだ! と拡声器をもって非難を誘導する勇者たち。ちゃうねん、おれやねん。と思いながら、これは国際問題ですな、なんて嘯きながら次々と都心の高級車へ向けて神の怒りを放電した。なにがハイブリッドレクサスじゃ、ぼけ。なんてって、ぼぅっ。火柱があがる。大地に手をあて、その鼓動を感じるようにそっと力をこめれば、マンホールからはマグマが吹きだした。逃げ惑う民草を背に、俺は地球の磁場と電気の磁場の反駁を利用して中空に浮く。なんだかアキラの鉄雄になった気分がして、とっさにこしらえた赤い布をマントに見立てた。この世界はもう駄目ですね。そういって俺はハーパーを煽った。

 

冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い

 

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たくさんの美しい写真がインターネットに開花している。そんななか、忸怩たる思いであるが、我が家の「今年の夏」を象徴する近影をアップロードしてみる。

ウェザーニュースを幾度となくチェックしていた。妻と予定の調和する日取りを決め、観風を仰ぐためである。しかし鬱慮、憂悶することがしばしばだった。なぜなら。

今年の夏は、雨天曇天のマークが巷間に横溢していた。ゆえに遠方に足を運ぶのを憚られることが多かった。山の日という祭日も制定されたが私は仕事だった。妻も土曜は労働に従事することがあるため、日曜休日のお天道様の元気な姿には感佩した。

もうすぐ3歳になる息子がいる。写真のそれである。彼と風光絶佳を興じたい、そうねがったが、予測される天候がそれをさせないことが多かった。しかたなく陋屋にそなわっている猫の額ほどの庭であそぶ。すると。

白いもくもくマークが予見していた曇天から一転。陽光が世界に満ちた。判然たる鮮烈な色彩が世界に放たれた。陽射しは肌をじわりと焼付け、若草が馥郁とした。塵埃のまじった温室のような生ぬるい風が頬を掠め、耳を聾するほどに蝉が歌った。

息子と私はいたたまらなくなった。「こうしてはおられぬ」と真空を利用した水の発射装置を小脇にかかえ、行水にはげんだ。ビニールプールなども所有しているのだが、空気の注入に時間を要する。この瞬間、太陽が踊っているのは須臾かもしれない。そう念慮し、刹那を遊戯することに獅子奮迅、粉骨砕身、全身全霊を賭した。

そんな一時。無聊を託ちていた我々に降り注いだのは、ちいさくて濃厚な夏だった。桶にいれた水は清澄な光を放っていた。

今週のお題はてなブログ フォトコンテスト 2017夏

 

意味のない文章

 

意味のない文章。この文字列には意味がある。意味を読み取れる。

つまり「意味のない文章」という文字列、文章には意味がある。これは矛盾しているのではないだろうか。しかし本当に意味のない文章というものは存在するのだろうか。

たとえば。「こじふじょえまとき」という文字列は意味を成さない。つまり文章になっていないので、意味のない文章の土台にもあがってこない。では、慧眼を殴ってくるぶしをラーメン、と言うのはどうだろう。文章になっている。助詞があることで文章の体裁を保っている。では意味があるのだろうか。

一瞥しただけでは意味がわからない。しかしこれに意味を見出す人もいるはずである。世界には70億人も人がいてそれぞれに言語をもっている。そんなことを言う人も出てくると思う。それは表音的に「けいがんをなぐってくるぶしをらーめん」という日本語の文字列の配合が、遠い大地、アフリカのンジュクナス部族の発音では「あした俺んちでマリカーやろうぜ」と意味をなす場合がある。これは判然と意味がある。

そもそも、文章上での意味が、すべての意味ではない。もしかしたら不可思議な文字列である「慧眼を殴ってくるぶしをラーメン」を符牒としてエフビーアイや埼玉県警が使用しているかもしれない。そうなると、日本語の表音、表意上は意味をなさないが、この文字列が、文章の体裁を保つ「慧眼をなぐってくるぶしをラーメン」という音が意味をなさないとは断言できない。

現に、こうして私が意味をなさない文字列として使用している時点で意味を持ってしまっていると思う。ほかにどんなアンバランスな文字列、それは文章として成立するものを調合した場合、きっと意味をもってしまうのだと思う。

だから意味のない文章なんて存在しない。そうした演繹と帰結。おれはちゃんとしごとをしたほうが良いと思う。