そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

無限の絶望

 

 自分のブログや日記に書く事象を「ネタ」だなんて思うほど、たいしたことは書いていないのだけれど、じゃあそれはなにか? と問われれば、ネタと形容せざるをえないので、便宜的にネタと呼称しますが、なんで書いていないときには無限に発生するネタが、こうパソコンの前に立つと、余燼も残さず消滅してしまうのは、ほんとなんなんでしょうか。謎ですね。小松未歩

 

 あ、これネタにしよう! と思ってメモすれば良いのでしょうけれど、その瞬間、つまりネタが脳内で発生した瞬間は「なんてすごいおもしろいことを思いついてしまったんだろう! バズるな! これは!」と思っているものですから、メモをしようにも裏腹の肝胆では「こんなおもしろいこと忘れるわけがない!」と思っていて、メモなんかする必要ないんですね。ってこう口語的なニュアンスは一体誰に話しかけているんでしょう、俺は。いや、これはべつに口語的に書いているブログ類を卑下しているわけではなく、俺は誰に向けて話しているのか! という自己認識的な話であって、ほんとこうして保守的になる自分が憐憫です。

 

 つまり、なんでメモをとらないのか。ってゆうことやねんけど、って関西弁ってすごいですよね。こないだ、って「この間」を略した口語的な接頭副詞なんですけれど、これもすばらしいですね。まるでしゃべっているかのよう。で、こないだ。ある小説を読んだんですけれど会話が関西弁なんですね。私はこれちょっとずるい、と思いました。

 

 標準的な言語での会話を文体にすると、なんだか無機質なんですよね。それだけでは人物を構成できない。かといって会話中に流れる空気みたいなものは文体に表せない。この空気感が、その口語感がなまなましくその人物を物語るんですね、関西弁だと。いまや関西の芸人さんだらけのテレビジョンを見てると、この関西弁のイントネーションやニュアンス、空気なんちゅうのは一般的な概念となっている気がすんねん。だからな、思うに。読み手がそのイントネーションやニュアンスを想像してしまうことによって、一定の方向性を与えられる、っちゅうことやと思う。それは行間の封滅か、と勘違いされるかもしれん。ちゃうっちゅうねん。口語はリズムやん。それが、読者側で用意してくれはるんは、人物の創造やねん。それはすごいことやと思う。東京語やったらこうはいかん。だから、ずるいねん。関西弁は。

 

 なんて思ったんやけど、まぁなんで俺がふだんメモとらんか、ちゅうたら、ま。慢心っちゅうやっちゃね。こないして関西弁で日記書くっちゅうのもええな。千文字越えてしもうたわ。でもほんま、俺、駿河の国の生まれやねん。ずら。なんていう絶望。また。