そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

不安な朝

 正しく生きたいとおもう。間違ったことをするよりは、正しいことをしたほうが好いのである。いわば道徳観。やっぱこれだね。たとい間違を犯したとも、できることならやりなおしたい。つまり、軌道修正をしたいと願う。たれか正しき方角へといざなってほしいのである。

 

 率土之濱を眺むれば、正しさを追求していおられる御仁がおわす。悪どいものへ天誅を加えるのである。謀(はかりごと:不思議なセミナーなど)をして人を陥穽へ落としむるな! と大きな声をして咎人を排撃せしむるのである。

 

 結果、罠に陥る寸でのところで救助される人々もいるのだろう。あー、よかったよかった。って、まぁそんな人おれは見たことねぇけど。落ちるやつは正義の使者の声なんて聞いてなくね?

 

 しかし問題は、排撃せられたその咎人も傷つく、ということである。おれの学んだ道徳観では人を傷つけてはいけない、となっているのである。咎人であれば殺してもよい、というのが今の日本国憲法であるが、民事で殺人となれば、それ自体がより強大な罪となってしまう。いったいどうすればいいんだ!

 

 正しさとはなんなのか。おれにはわからない。なにより、正義を執行する側が、「人を助ける」という目的というよりも、悪人を制するというスローガンを旗に、「人を傷つける」ことを楽しんでいるように感じてしまうのである。こわっ。もし仮になにか間違いを犯したとき、おれはこれらの正義の執行人からすごい攻撃を加えられてしまうのではないか。不安である。

 

 だから正しく生きていたい。これは道徳観というよりは恐怖政治の外圧がかかっているのではなかろうか。はっきりいって怯えている。あぁ今日も正しく生きねばならぬ、そんな慄然たるおもいで朝目覚める。

 

 正しさを基準に行動をしよう。がんばってさ。と、眉宇に決意を漲らせ、日本国民としての正しさを遂行しようと労働の旅支度をするときに、はたっ、と止まってしまうのである。すなわち、朝の仕度の正しさがわからぬのである。

 

 ここで、私の朝のタイムスケジュールをみてみよう。

①起床

②洗面

③食事

④着替え

⑤歯磨き

⑥茶

⑦家出

と、まぁ、こんな具合である。

 

 ①→②の行動は正しいとおもう。しかし問題は③→④の順序である。望月家では食事はパジャマを着用したままするのであるが、人によっては着替えてから食事というパターン、すなわち上記番号を用いれば④→③の順番というのもありうるのではあるまいか。

 

 というのも、パジャマというのは毎日洗わない。えっ、洗わないよね? わかんないんだけど。まぁ洗わないとしよう。二、三日くらい着るよね。それを前提条件にしようか。ね。で、パジャマは毎日洗わない。そんなパジャマで食事をするということは、パジャマに、ジャムや醤油や卵黄や納豆が飛散する可能性があり、そのあらゆる食品が付着したパジャマを寝室に持ち込むというのは、衛生的にどうなの? ってなものなのである。

 

 すなわち、朝餉は着替えたあとにする、というのが正しさのように思われる。だがしかしおれは反駁したいのである。おれの反駁の主眼を先に述べておけば、それはいわゆる「フレッシュさ」なのである。

 

 やはり一日のスタートはフレッシュな気持ちでいたい。それに必要なのは、畢竟、「ブランニューなシャツ」だとおもうのである。

 

 論点が見えてきたとおもう。え、見えてこない? おかしいな。だからつまりさ、着替えてから飯を食うと、上記のごとく、ジャムや醤油や卵黄や納豆がせっかくのブランニューなシャツに付着する恐れがあり、もし付着してしまえばひとたまりもなく、その日一日の「フレッシュさ」というのが削がれてしまうのである。

 

 由々しき事態である。失われたフレッシュさは、周囲の人びとへの影響も大きく、シャツにケチャップなどをつけて会社へ参れば、「今日一日もがんばろう!」と意気込むフレッシャーズへ悪い波動を与えてしまい、フレッシュなエネルギーを消滅させる結果となって、日本のGDPを減退させてしまうのである。国家の危機である。

 

 しかし、本当の正しさはどうなんだ。拙宅の衛生管理を重視したほうがいいんじゃないか。いやでもそんなことしたら日本の国内総生産が…。

 

 しかし、こうして望月家の朝の流れをネットに曝してしまった以上、もしこれが間違いだった場合、「おまえは間違っている!」とのご意見ご感想をちょうだいするかたちとなり、結果軌道修正とはなるものの、これまでの人生を否定されることになって、おれはすごい傷つく。でもきっと正義の執行人はおれを傷つけたことなど歯牙にもかけず、恬然と「正義って超きもちいい」などと楽しく毎日を過ごすのである。インターネットってこわい。

海の見える墓

 祖父の四十九日のため、静岡へ自動車を操縦していった。この土日のことである。片道三時間。自動車のハンドルを握るのはちょっと好き。生まれ変わったらあいのりの運転手になりたいとおもっている。

 

 祖父宅に集合し、そこから葬祭結社へとむかった。加藤茶のパネルがある。加藤茶の笑顔の裏に彼の妻の翳りが見えてしまう。がんばって生きろ、茶。そこからバスであいのりし、寺へと向かう作戦が用意されていた。

 

 静岡の道はきれいである。とても整備させている。往来の幅も広く、なんだかゆったりとしている風情がある。あるコミュニケーションの最中「静岡産まれの厳選茶葉」たるおれの出生の秘密を明らかにすると、よく「静岡あったかくていいとこだよねー」、などとおっしゃる非静岡人がいるが、どの口で言ってんだとおもう。お前はなにを知ってんだ。

 

 寺は小高い丘の上にあった。曹洞宗であることは、ちょうど四十九日前の祖父の葬儀で知った。とても立派な寺であった。無税ってすごいとおもった。ちょっと脱税しようかな、と悪い心が起こった。幾星霜の時流のなか、多くの人の視点に撫でられた建築には、艶やかな余裕ある悠然たる風格があった。廊下が広く、軽自動車くらいなら通れるんじゃないかとおもった。庭も手入れが行き届いていて美しい。

 

 お経をあげ墓に向かう。この丘をさらに登攀する。老年がおおいため、ここでもマイクロバスをつかう。吾が息子たちが平均年齢を大きく下げるとおもったが、焼石に水とはこのことで、無駄なあがきに終わった。

 

 細い道をのぼっていく。ここ両側車線なのかよ! とおもった。あきらかに車一台でギリギリなのである。政府はなにをしているんだとおもった。すぐさま醵金し道路整備をすべきだとおもった。寺からも税を徴収すべきだともおもった。あまりにも細い路地を曲がっていく。あいのりのドライバーはあきらめようとおもった。

 

 墓のロケーションはとてもいい場所であった。住宅が櫛比する眺望の向こう側に駿河湾が臨める。中天の太陽をはじき返す鉛色の遠海はきらきらとかわいらしく踊っていた。線香をあげたその墓のデザインも乙なものであった。嫡孫(おれじゃない)が一筆した彫心鏤骨の「楽」という文字である。はっきり言って洒落てる。

 

 あまり陰気な葬式の一連ではなかった気がした。祖父の人柄にもよるのかもしれない。とてもいいかげんで酒飲みで、でも鷹揚で海容な祖父だったとおもう。あつまった人も多かった。こんなに親戚がいたのかと驚いてしまったくらいである。

 

 いろんな死にかたがある。事故や病気はほんとうに悲しい。でもこんなふうに弔ってくれる人たちがいたり、景勝たる立地に墓を建築してもらえるのは幸せなことなんじゃないかな、なんて抹香くさい礼服を脱ぎ脱ぎおもった。

 

 遺伝子的な母が、ようたもじゅんすけもがんばったので「おもちゃ屋に行ってやる」と言い出した。おれもがんばったんだけどな。玩具屋でベイブレードを買ってもらった。ようたはずっとベイブレードを欲しがっていたし、正直に言えばおれも欲しかった。三十二歳、母にベイブレードを買ってもらう。元気にたくさん遊んだ。

気になること

 気になること。それはやっぱもちろん家族の健康のことである。息災に生きていてほしい。それだけを願っている。こうして遠く江戸の地で出稼ぎに出ていても、彼らの安息が気になる。それがいちばん気になること。その次がスピーカーの位置である。

 

 昨晩。コンセントタップが吾が家に配達されたので、興がのったのもあり、テレビ裏の配線をちょっといじくった。まぁそれは副次的なものであって、主たる目的はスピーカーの配置であったのである。

 

 なにをどうしてそんなものを買ってしまったのかよくわからぬのだが、5,1チャンネルの、いわゆるサラウンドスピーカーをテレビに付けていた。たしかその頃おれは「みな画質のことばかりを気にし、液晶の質と薄さを競い合っているが、果たして音質についてすこしでも顧慮しているのだろうか、ってゆうのは反語」みたいなことをおもったにちがいない。

 

 ゆれにパイオニアーという株式会社のサウンドスピーカーを購入し、テレビに接続せしめた。むろん音質はよくなった。よくなったのであるが、きたない。きたないってゆうのはテレビ裏の配線である。

 

 スピーカーのケーブルがどうもカオスしすぎているのである。そりゃだってスピーカーが五個もあんだもん。ごちゃるわけだ。これでいちばん困っちゃうのが、吾が家のガンダムであるロボット掃除機くんの「ケーブル巻取り問題」である。

 

 どうしてもそのケーブルは地面に接してしまう。ロングスケールのケーブルなのである。じゃあ切っちゃえばいいじゃんてなものであるが、もしかしたら長いケーブルで使うかもしれないじゃん、とおもって勇気がでない。

 

 それに、吾が書斎におけるスピーカーが暇をしているのである。ぶっちゃけ部屋で音楽を聴くことなど皆無である。ヘッドフォンで聴くしね。だからそのスピーカーが余っちゃっているのである。

 

 吾らがジャパニーズの血の宿命とでも言おうか。もったいない、とおれは思ったのである。だってたぶんというか、確実にパイオニアーのスピーカーよりも優良な製品なのである。

 

 しかも、ほぼ5,1チャンネルで音響を使用することがない。うるせぇし。じゃったら2,1チャンネルでも優良なスピーカーでテレビの音質を高めよう、ってな鬼謀をおもいついちゃったのであるよ。

 

 そういったわけでスピーカーの配線をおこなった。ウーファー兼用のアンプに繋げるだけなので超簡単。やったぜつってソファでテレビを視聴してみると、とてもいい感じなのである。

 

 そんなハッピーで終わるのならば、いちいち日記に書くことも無い。幸せをひけらかすほどの愚かさをもっていない。そういうのはいいんだよ、ほかのひとがやれば。人生訓とか語っちゃえばいいんだよ。かっこいいこと云ってればいいじゃん。

 

 問題はツイーター部分である。いぜんのスピーカーはツイーターが傾斜になっており、リビングでは立っていてもそれほど高音部の印象は変わらなかった。

 

 しかし、今回のスピーカーはオンキョー製で、むろん平面部にツイーターが設備されている。つまり、ソファにすわっていればそれほど高音部に不足はないが、立ってみるともうぜんぜん音が違っちゃうのである。

 

 ここでおれはひとつの解決策を閃いた。それはいわゆる「あきらめる」である。もうあきらめた。べつに途中で立つような番組や映画ならそんなに音質気にしないでしょ、なんつて、もう立ったときの高音域についてはあきらめました。もうどうでもいい。

 

 ただやはり、どうしてもキニナル。おれもバンドマンのはしくれ。音にかんしては一言居士。プライドがあるのである。沽券にかかわるのである。でもしかし、それよりももっと強い吾が精神力、「めんどくせー」がそのキニナル憂さをかき消してゆく。ふはは。世界を一飲みするもの、それは倦怠。悪の華が狂い咲くぜ。

忘れないでくれ愛してることを

 

「はじめてのおつかい」という番組を観てしまった。とんでもねぇ破壊力である。有髯たる男児がたかがテレビ番組で泣くかえ。なんておもいつつも、ともなった滂沱たる落涙は、とうとう隠匿することが叶わないほどであった。

 

 視力がままならぬ子。舟ちゃんがもう駄目だった。箍が外れたどころではなく、決壊しました。心のダムが。なかんづくおれはお母さんの気持ちが、胸に痛みうるほどに理解できてしまった。

 

 ほんとに世の中、不公平にできているというか、先天的に障がいをもって産まれて来る命がある。なんでだろうな。もしちゃんと神がいるならば、せめてスタートラインはきちんとそろえてほしい。

 

 おれの子どもは今のところ健康に育っているようである。けれどももし、息子にそういった抗えぬ運命が降りかかってきたならば、おれはその穴埋めをしてあげたいとおもう。してあげたいというか、しなきゃならないとおもうのかもしれない。

 

 それで身の回りのことを甲斐甲斐しくしてしまうとおもう。「できない」ぶんを補ってあげたいとおもう。障がいはマイナスだから、私がそのプラスになって、プラマイゼロにはできないかもしれないけど、せめて円滑な人生を送れるようにしてあげようとおもうのかもしれない。

 

「障がいをマイナス」などと書くと怒られちゃうかもしれないけれど、じぶんの子がもし障がいをもって生まれてきたら、まずそう考えてしまうとおもう。それをいきなり「個性」と捉えることはできない気がする。

 

 だから、なににつけても手を添えてあげたり、口を酸っぱくしてしまったり、やることなすことに一言居士となってしまうとおもう。

 

 どうやってそれを言うか。というのがポイントなのかもしれないが、たとい各種教育本などによって子育てスキルを身につけていても、生活なんて感情で回っているようなものなので、感情を押し込めて、夢寐にも忘れず教育スキルを発動させるなんてことはまさに至難のかぎりである。とくに子育てというのは、かなりTPOによる。触れると感電死する拷問用具に近づく子どもに、「なぜそれをしようとしたんだい」などと悠長に話しかけている暇はないのである。

 

 だから反射的に鞭撻してしまう。愛しているからこそだとおもう。守らなくては! とおもうからこそだとおもう。過保護だといわれてもそれは仕方ない。だってこの子は他のこよりも大変なんだもの。とおもってしまう。

 

 それでも勇気をもって不退転の決意をなし「おつかい」をやらせてみた。狷介不羈といわれるかもしれない。あの意固地なふたりだけの空間は、まさしく竜虎の闘いであった。固唾をのんだ。手に汗を握った。そして、ちょっと想定とはちがった道程にはなったとしても、番組上の安全を奇貨として、ミッションを成功させた。すごい感動的であった。

 

 ちょっとツイッターを見ていたら、この母に否定的な意見をツイートしている方もいらっしゃった。「こんなんじゃトラウマになる」。だが番組をちゃんと観ろ。舟ちゃんは立派に育った。視力が弱くとも、按摩の技術をマスターし、資格もたくさん取得しているというではないか。そら見たことか。母は間違っていなかったのだ。

 

 どんな教育方法だとしても、愛がすべてを解決したのだとおもった。「おつかい」から現在に至るまで、一筋縄ではいかないことのほうが多かったのかもしれない。けれどもあのお母さんの根底にはすべて愛があったのだとおもう。むろん舟ちゃん本人の弛まぬ努力がいちばんすごいとおもう。

 

 我が家では妻が子どもを叱る役目をしてくれている。それでようたは随分おれに甘えるようになってしまった。「ママ好き! でもほんとはパパのほうが好き」が口癖である。おれはちょっとうれしい。

 

 でも母は君のことをとても愛しているんだよ。叱りかたに傷つくこともあるかもだけれど、それはあなたを愛しているからこそなんだよ。三木清は「憎まぬために怒る」なんて言っていたけれど、怒っちゃうのはそういうことなんだよ。それを「忘れないでくれ」と子どもに伝えるのが、いまのおれのポジションなんじゃないかな、なんておもった夜だった。

若草色したりっぱな家建てましょうね

 

十二月二十九日

 活動方針というのを決めねばならぬ。そうおもってみると、たくさんのやりたいことがわんさか出てくる。欲張りなベイビー。ぜんぶ出来るわっきゃない。できることからコツコツと。そう、それが人生。窓、網戸、各種フィルター関係の清掃を行う。窓網戸にはゴーゴーロクを使役して油を注した。正月気分で独楽を回した。気楽な家族である。

 

十二月三十日

 静寂。近所のひとびとは実家に帰省したようだ。ふっ、おれたちには帰る場所なんてないのさ。平成最後の年末年始だからか、中島みゆきの「時代」をやたら耳にする。ヤオヒロで買出し。大晦日は焼肉にしようとおもった。すきやきよりも焼肉のほうが好きだから。ヤキマルというガスボンベ式の卓上コンロを購入したため、お家焼肉が捗っちゃって仕様ない。喫茶店に行く。肉を買いすぎたためにこの日も焼肉。明日も。

 

十二月三十一日

 年越し蕎麦は、晩飯のあとに食うというハト派なのだが、もうこんなことやめよう。不毛だよ。おなかいっぱいなのに蕎麦を食う。食えちゃう。飽食の時代である。大和芋をすったら手がかゆい。ちなみに禁じていたお酒を飲んでいる。あれ、こんなもんか。といった感じ。日本酒と焼酎を飲んだ。新聞紙というレアなアイテムが払底してしまった。自動車の洗浄。いと寒き日々なり。ガキ使とか視聴。

 

 一月朔日

 加湿器を焚いている。朝、目覚めると窓がびしゃびしゃである。しゃあねぇや。って窓拭きをする。吸水スポンジが八面六臂。太陽が昇る。空気がすきとおっているのがわかる。家屋を翳に染め、夜を空にしていく瞬間の、橙と群青の狭間のエメラルド色が神秘的でうつくしかった。雑煮を食う。立ち昇る湯気に噎せ返る。お正月には凧揚げて、独楽を回して遊びましょー。凧を揚げる。南北にながい公園。北からの軟風。南から北へ向けておれは走った。見事に風を正面に受け、凧は高々と天空に舞い上がった。泰然とした凧はまるで空の一部のように蒼穹に浮かんでいた。

 

一月二日

 地の神へ初詣する。枯葉を踏み鳴らすと、土のにおいが鼻につく。賽銭箱。かなりでかい蛾が出現した。けっこうきれいだった。午後。ひまちゃんちんなので初売りに出かける。ようたとおれは遊びのところ、妻はじゅんすけを抱いてショッピング。お年玉千円でものを買わせた。数字が三つのものなら買えるよ。トランスフォーマーを買ったみたい。妖怪大辞典もプレゼントしてやった。平成のネット史(仮)という番組がインタレスティングだった。

 

一月三日

 だるま市に参る。わたがし。いや、わたあめ? 妻の後厄。参拝。すげー人いっぱい。だるま千七百円と六百円のものを購入。結果運とはなんぞや。交通安全の守護符を購入した。やきそばも買った。ようた用のプレイリストを作った。でないと延々とダパンプを聴かされる羽目になるからである。夜はラーメンを食う。田所商店は家族でうまい味噌ラーメンが食える。ここも混雑。クレヨンしんちゃんの映画を視聴。嵐を呼ぶジャングル。ようたに愛される。

希望がないってことに希望があった

 

 特定の宗教を拝しているわけではないけれど、神というか、そういった「見えざる手」のようなものが、おれの宿世を担っているのではないのか、という恐怖に心砕いている。とっても切実。おれは常になにかに怯え、警戒しながら生きている。

 

 だから願掛けというか、縁起物に弱いというか、験(げん)を担ぐような行為をするのだけれども、今現在、願いを込めて超がんばっているものごとのひとつに、断酒というものがある。

 

 妻が予想通り切迫早産であったため、とりあえず産まれて来ること、妻が元気でいられること、産まれ来る子が健康であること、などのまったくもって欲深い願望を、ただ酒を断つ、それだけの行為に託したのである。いやしい貧乏根性だ。あさましい。

 

 ただ、おれにとって酒とは真実である。「酒に真実あり」なんて昔のひとは言ったが、蓋しその通りであるとおもう。みな品行方正に努めているけれども、そこに真実はあるのか。あんちゃん。心にダムはあるのかい? と言いたくなるほどに、どうもこの世は虚飾に塗れている。おれはそう感じるのです。

 

 でもおれだって常住、真面目に生きているつもりだ。けれどもこれは嘘である。大嘘吐きだ。妙に明るくおどけてみせたってお前の本性はただの懈怠だ。欲求を叶えられぬと諦念したがためにうがった眼をもち、世を蔑み、他を排して己を賞しているだけだ。はっきり言ってクズ。いや、そこまで言わなくても。

 

 けれども、酒を飲んでいると、なんだか力が湧いてくる。ひょっとしていけるんじゃないか? と妙な自信が漲ってくる。おもわず、パワー! と叫びたくなる。両手を挙げれば地球上のみんなが元気を分けてくれるような気がする。そしてなによりも、すべての動息に纏綿とする虚飾をふりほどくことができるような気がする。酒飲みとはそんな可愛いものなのである。

 

 ゆえにおれにとって、酒を飲まぬというのは虚飾との闘諍なのである。この世の嘘、自分自身という嘘。ぬめぬめと身体髪膚にへばりつく。どうも嘘くさい。さっぱりしたい。ああ酒が飲みたい。落ち着きたい。そんな精神の安寧のために、おれには酒がひつようで、欠かせないマストアイテムなのである。

 

 でもでもだからこそ、この願掛けには功徳があると踏んだ。結果、母子ともに健康。懊悩した切迫早産もなんとか克服し、とりあえず息災な家庭がここに、ある。

 

 こう書くと、まるでおれが自分自身の英雄的犠牲を棚に上げ、勇者のように祭り上げているような印象操作があるとおもう。まぁはっきり言って「よくやってるね!」と称揚してほしい。いや、そういう魂胆があさましいと言っているのだ。そこんとこどうなんだ。

 

 だが、平穏というのは続かない。とつぜん、酒をもらってしまったのである。

 

 盲点であった。酒は買わねば手に入らぬと堅い信仰を抱いていたがために、余所さまから「いただく」という一縷の可能性を見出せなかった。粗忽であった。でもほんと信仰はひとを盲目にしますね。

 

 こういうときに「禁酒してんすよねー」とかるみをもって明かせない。松尾芭蕉という俳人は晩年、「侘び」「寂び」「しおり」「細み」の極地に「かるみ」を見出したという。おれももう既に三十二といえども、浅学寡聞という性分のためにいまだ「かるみ」を体得していないのである。無念である。

 

「もう奥さんも出産したんだし飲んじゃえばいいじゃん」と言うひともおるだろう。愚昧なやつらめ。おれの見立てによれば、彼らがいま息災健康にいられるのは、「妻が授乳を終了するまでは酒を飲まない」という神との前借契約によるものなのである。だからまだ飲んじゃ駄目なんだよ。

 

 だから飲むまい。いやしかし、こうも酒壜があるとね。まいっちゃう。眼の端にとまっちゃう。そのたんびに、あぁ…とか、うぅ…とか、くぉ…とか呻いちゃう。棚に仕舞えばいいじゃんね。

 

 かように呻吟する憐れな男の姿をみた妻が「お正月くらいならいいんじゃない?」などとぬかすのである。おまえ、今のおまえの健康は、だれのおかげで成り立っているとおもっておるのだ。おれの英雄的犠牲によって、神との厳粛な契約のうえに、この幸せは成り立っているのだ。いわば累卵の危うき。

 

 それをだ、「ちょっとならいいんじゃない」などと。おいおい。正気か、この女。おれのがんばりを反故にする気か。おれのいままでの純情はなんだったんだ。この神聖な祈りはなんだったんだ。年末年始は神も忙しいってかい。いや、そういう隠匿は暴かれるよ。

 

「でもお酒飲まないとちょっとぷりぷりしてるじゃん」と妻の談。嗚呼、晴天の霹靂。そうか。忘れていた。おれは眼に見えぬ神への意地の張り合いのために、見えていなかった。それはすなわち、この水晶体に映る家族の幸せ。そうか。まずこれを寵せねばならない。

 

 神がなんだ。おれは家庭の幸せのために酒を飲むだろう。そうして心の底からおどけてみせるのだ。それが家庭のハッピー。「家庭の幸福は諸悪の根源」といったのは誰だったか。こういうことなのかもしれない。けれども、おれはきっと酒を飲むだろう。元気で行こう。絶望するな。

この半径三十センチのなかで

 世間が騒がしいと、どうも卑屈になるというか、こないだも電車でクイーンのライブエイドの動画をスマホで観賞しておる女人がいたのだが、はっはーん、さてはこやつボヘラブ観たのだな、くそーうらやましいぜー、って、だったら観れば? ってものなのじゃが、おれの精神に「流行を追うのはださい」という芯の硬い、けれども世間からみればくだらない美学があるために、観らんないのである。かなしい。ライブエイドをみるならU2もみてくれ。あれすごいから。

 

 1975の新譜 「ネット上の人間関係についての簡単な調査」というアルバムがとてもおれ好みの出来栄えで、こればっか聴いている。このバンド名めんどくせーのでおれはもうふつうに「イチキューナナゴー」と呼んでいる。わかるっしょ?

 

 ペイペイがうんぬんかんぬん。うるせぇっつんだ。こちとら貧乏だ。ってことは今この20パーオフの波に乗らねぇつうのは、とっても粗忽。はは。なるほどね。買おう、なにかを。いざ尋常に有楽町のビックカメラに参ったのである。

 

 やはり東京というのは人口が稠密してやがる。おいこら急に止まるんじゃねぇ。東京の人間は車の運転をしないためか、急に歩行を停止したり、方向指示器もださずに唐突な方向転換をしたりする。そんな彼や彼女の挙措をいちはやくレーダーでキャッチしてしまうおれは、おっとあぶねぇつって回避運動、すると避難先にまた人がいて、なんなんですか一体あなたは、みたいな汚いものをみるような目でみてくる。ちがうんだ。悪いのはおれじゃない。あいつです。あいつがわるいんです。だって急にこっちにくるから。いや、すいません…。はい、示談金です。ペイペイでお願いします。はいスキャンで。なんつってなにも買わずにビックカメラを後にしたのである。

 

 土曜日。ようたの散髪。しかしなにか心にひっかかる。そうか。これは蟠っている。せっかくの20パーオフなのにおれはなにもできなかった。くやしみ~。なにがなんでもこの恨み、晴らしてやる。と、やってきたのは地元の閑古鳥の鳴くコジマ電機。

 

 妻のアイフォーンを換えた。6sからXRへと。換えたのだ。ペイペイで。むろん20パーオフされた。よかった。これでなんの憂いもなく正月を迎えられる。世の中には全額キャッシュバックするひともあるのだろうが、それでもつつましく生きている私達にとって、二十パーオフってだけでも、たいへんありがたい経済効果なのである。ありがとう世界。

 

 ようたにはグルジオキングのソフビを購入した。おれは個人的にメトロン星人が欲しかったのだが、ようたがしきりに「そ、そそそそ、そんなのかったら、あかちゃん、こわがるよ……?」と申すので、いやお前がこわいんだろ、とおもったが、よしわかった、そこまで言うならこれは止そう、と、代替案としてウルトラセブンのソフビを購入したのである。

 

 おもちゃを買ってしまう癖がある。浪費家ではないとおもう。理由は己の物欲、いわゆるギターやアンプ、CD、書籍についてはかなり二の足をふむタイプだからである。しかし妻や子のものとなると、がんがん購入してしまう。するとおれの手持ちのアイテム~は少ない。なのにカネがない。これがいわゆる、他のひとよりも一層貧乏を感ずる所以であるとおもうのだよ。つらい。かなしい。どうも生きにくい。

 

 チョコレートプラネットの芸人がイッコーさんのものまねをしているのだが、なにかと四文字、あるいは語感がそれに近しいときにイッコーさんのやつをやってしまう。おれに「イッコーさんのものまねをするチョコプラ」が降臨する。スンドゥブ~。やりたいわけではない。流行に乗るのはださいという美学があるからだ。しかしやってしまう。おべんと~。つらい。かなしみ~。どうも生きにくい。