そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

ただ愛せ。振り返ることなく

 

 土曜日。お宮参りを行った。安産祈願の祈祷をした神社である。子授け、子宝、安産、各種子ども関係に功徳のある神社らしい。その日もどこぞの馬の骨とも知らぬ家庭が幸せそうに七五三の撮影をおこなっていた。しゃぼんの玉が気持ちよさそうに、風と木漏れ日に揺らめいていた。

 

 ようたの時分はちょっと有名な氷川神社でおこなった。けっこう弩派手にやったというか、紙をはさみで切り縫いたシャラシャラした正体不明の掛け物を肩にのせたり、控え室で待機したりとなにかと大仰であった。

 

 どうも二人目ともなると、いいかげんになるというか、そんなに手間隙をかけていられねぇというか、ようたのときは一眼レフなんかを持参して中国人のようにパシャクラとシャッターを切っていたのだが、かわいそうなじゅんすけ。いまだそんな手間隙をかけられたことが皆無なのである。

 

 発情期を知らしめてしまうようで忸怩たるおもいなのだが、ようたもじゅんすけも神無月の産まれなので、ようたのものがそっくりそのままじゅんすけに受け継がれている。だから、じゅんすけだけのもの、というアイテムが未だにこの世に存在していないのである。

 

 まぁしょうがないっか。というのも、やはりようたに時間が割かれてしまう。ってゆうか、ようたにけっこう気ィ遣ってる。人間の嬰児があまりにも不完全なカタチで生誕するために、世話はじゅんすけに向かうのだが、それによってようたがいじけてしまわぬように、細心の注意をはらった心配りが必要なのだと認識している。

 

 とにかくやたら泣くので抱っこしていると、「ようたくんもそうやって抱っこして」と言ってくる。はっきり言ってちょっとかわいい。ベビーベッドにじゅんすけを放置し、ようたをたくさん抱っこしている。目方は十七キログラムある。なかなかよい運動になっている。

 

 日曜日。車を一〇分くらい走らせた先に、なかなかいいかんじの公園があると判明した。磁器でできた摩擦力を軽減するでかいすべり台が、なんとふたつもある公園である。アがる。棚曇の天候であったが、ようたとふたりで遊びをしようと出かけたのであった。

 

 砂場には鯨。鯨から橋をわたした先に亀。亀から幾多ある珊瑚を跳梁していくと船舶にたどり着く。そういう砂場。サンドフィールド。

 

 なにかを偶像しているかのような岡本太郎がエクスプロージョンしている白い磁器のすべり台。勾配はやや鋭く、人類の力ではコントロールしきれぬふうがある。

 

 それは経年による褪色なのか、もともとの配色なのか判別できぬが、クリーム色の磁器でできたすべり台。その公園でもっとも巨きな存在をしたそれに向かう。ひんやりとしたオーラをビシビシ放っている。姉弟とおもわれる子どもがふたり遊んでいた。

 

 こちらもまた勾配が厳しい。何度か昇っては降下しすべり台という遊戯に成功していた。おそらく少年年長、もしくは小学一年くらいの男児にいざなわれ、別の登山口からアタックしたのだが、磁器でできたそれの摩擦軽減率が、四歳児の脳にはまだインプットされていない。ようたは見事に散った。

 

 掛けた脚がおもったよりもスライドしたらしく、鼻の頭を磁器のつめたい表面に強打したのである。そこには彼の全体重が乗り、尋常ではない量の鼻血で、顔面を赤黒く染めていたのである。

 

 タオル地のハンカチーフですこしく押さえ、止血というか、出すものは全部出せ! という酔った人を介抱する気持ちでベンチに座り、落ち着くまで待った。雲間から零れてきた陽射しが背中にじんわりとあたたかさをもたらした。

 

 まだ遊ぶという強い意志のもと、昼まで遊んだ。ロープにぶらさがり、滑車技術を応用することによって地面に脚をつくことなく平行移動できるという遊具で遊んだり、なぞのモニュメントに跨り、戦車操縦を意識してシンゴジラを攻撃したりした。たのしかった。

 

 さいきん午睡しない。ネットフリックスでクレヨンしんちゃんを観たり、夕刻、また庭ですこし遊んだりした。夕飯はエビマヨだった。うまかった。風呂にはいって床に就き、寝かしつけた後、M1グランプリをみて、やっぱ今田耕司はおもしれぇなつって休みの日が終わった。

ティアーズインヘブン

 帰宅時、ふいに稲妻に打たれたかのような衝撃が走った。食パンを買う。その一大プロジェクトを忘れていたことに気がついたのである。

 

 踵を返し、ちかくの市場に向かう。さむくなりましたね。食パン8枚切りをチョイスし、いざレジスターへ、と決意を胸にしたところ、手の届く範囲に菓子コーナーがあったため、ポップコーンを手に取り購入した。

 

 食パンをひとつだけ購入することに気負いがあったのである。食パンをひとつだけ購入することによって、おれの生活スタイルがレジスターのひとに見破られてしまうし、なにせ「このひとめちゃくちゃ食パン好きなのかな」なんておれの人物像を勝手に想像されるのも癪である。

 

 しかし、このように同時にポップコーンを購入することによって、食パンはついでの買い物、とショッピングの目的を朧げにすることが可能である。こいつ、一体どっちがほんとうに欲しいものなんだ……とレジアタッカーは懊悩したにちがいない。

 

 宵闇に紛れ帰宅し、スーパーの袋を差し出したところ、妻の顔が驚きの気色を見せたのがわかった。矢庭にその気色はいくぶんか憂いを帯びていき、「食パン、ネットスーパーでたのんじゃった」と言ったのである。

 

 オーマイベイビー。それを早く言ってくれないか。そんなこんなで拙宅には食パンが二袋並んでいる。食パンが二袋あるとさすがに重々しいふんいきを放ちますね。

 

 ようたがポップコーンと言えない。ポックポーンになってしまう。かわいい。すごくかわいい。わーい、ぽっくぽーんだぁ。っておまえ、かわいいな! すごくいいな! あざあとくないんだよかわいさが! 妻と「この言い間違いは直さないでおこう」と決めた。

 

 ポックポーンをすこしつまんで、野菜スープで食事をし、ようたと風呂に入ってちんこを比べた。「でかいほうは攻撃があたりやすい。ちいさいほうはすばしっこいので結果強い」理論を展開され、おれのちんこは敗北を味わった。負けた気はしていない。

 

 こないだ。ガスファンヒーター用の普請をした。めっちゃあったかい。とてもいい。換気せよ、との警報が鳴り響くが、換気はきほん健康管理の骨子だとおもってるしピーピー鳴ってもまぁ許せる。

 

 ここ数ヶ月は死んでもクイーンが聴けないためツェッペリンを聴いた。アキレス最後の戦いがいちばん好きです。クラプトンがクリスマスアルバムはただのブルースアルバムです。サカナクションを聴いていたら、ようたが「おどりたくなっちゃった」と言うのでいっしょに踊った。セントビンセントをギタリストと言われるとちょっと違和感がある。妻が乳をまるだしにして寝ている。ドラクロワの絵のようだ。ネットフリックスでデビルマンクライベイビーを見始めた。毎日が過ぎてゆく。おれは今が一番若い。

まったくもってファック

 

 竹原ピストルの歌詞に「神さまはいるとおもうかい? ちげーよ、居るか居ないかではなく、要るか要らないかの話だよ」というふうなのがあって、個人的には「要る」んじゃないのかとおもっている。たぶんよくわかんないけどうちは浄土真宗じゃねぇかな。

 

「宗教は貧者の阿片」なんて文言もあるけれど、漠然とした神仏の意識があるために、お地蔵さんとか達磨さんは細心の注意をはらって丁寧にあつかうし、神社仏閣では品行方正につとめるようにしている。おそらくおれは罰を恐れている。

 

 過日。息子と散歩にでかけた。国道に架かる歩道橋をわたって、団地を横目にぐんぐん進むと、突如として異空間があらわれる。神社があるのである。寂寞というよりは清らかな森閑というかんじで、林立した樹木が落としている密やかな翳りが、ちょっぴり畏怖の感情をひき起こす。

 

 名前のわからない落葉樹が、滅びを運ぶ秋風にゆれて落ち葉を積もらせている。冷ややかな木々が息づいた香気のなか、柔らかな感触の落ち葉を踏みしめると、湿り気を帯びた土と緑のにおいが濃厚に立ち昇る。めっちゃマイナスイオンみたいなのを感じる。

 

 鳥居をくぐると、やはりそこから浄域のごとき、霊験あらたかな空気に満ちていて、下手なことはできないぞ、という念が湧き起こる。あと木陰に狐面をかむったヤバいひとがいそうでちょっと怖い。

 

 敷石の小道をまっすぐ歩く。なんだかその石の冷たさが、スタンスミスを通り抜け、身体の芯までとどいているような錯覚におちいる。すなわちこれこそがイッツ神パワー。身のうちから起こるこの震えのようなものもイッツ神パワー。イッツ神パワーと言いたいだけです。

 

 風のざわめきと、鳥のこえ。本殿のうえには吸い込まれそうな秋の蒼穹。光と翳のコントラストでそこに救いがあるように感じられる。うまい建築を考えたもんだね。おれはだまされないけどね。

 

 賽銭箱を前にし、ようたに「ここにこう」と云って、十円玉を投擲する。握り締めていた十円玉はおれの体温で36度くらいになっていた。一揖二礼二拍手一礼一揖なんてのはしないけれど、ガラガラを鳴らし、手を打って、祈願をする。ここでさもしいおれの心が発動する。

 

 たいてい神社に参拝する場合、その祈願には自己本位的な願望が根底にある。しかし、そんな俗物的なもんじゃありませんよ、神さま。おれはそんなんとちがうんですよ。というところを見せたいのか「いつも見守ってくれてありがとうございます」とおもったのである。

 

 それでいいじゃねぇか。とおもうじゃん? しかしほんとのおれ気持ちは「俗物的な祈願などをしないことによって神に、コイツはちょっとちがうぞ、と認められ、ちゃんと感謝してて偉いね、お願いごと叶えちゃおっかな、と神に良いやつだと思われようとして、いつも見守ってくれてありがとうございます」と思ったのである。

 

 なんて厭らしい心なのかしら。ああ、いやだ。そんな30代。ああ、気持ち悪い。まぁ自分ひとりでそんなことをおもうならいいのだけれど、おれはそれを息子にも強制したのである。彼の信仰の自由を奪ったのである。

 

 神社のそばに、ちいさな公園がある。風解によって褪色しきったブランコに、錆びだらけのすべり台。苔、超むしている。そこで少し遊んで帰った。ようたとゾイドの歌とウルトラマンルーブの歌をあやふやにして歌った。

 

 右の掌には賽銭のときに握っていた十円玉のにおいが残っていた。いや、これは遊具の錆びのにおいなのか。ほんとのことはわからないけれど、帰って食った吉田うどんがうまかった。

 

驚きと感謝をこめて

 金持ちと灰吹きはたまるほど汚い、なんて言うけれど、それに比してどうですかこの身の清らかさは。清貧。すばらしいことじゃないか。ビーティフルアンドワンダフル。生まれたぼくたちは美しい。

 

 たとえ着合わせのものはみすぼらしくても、心がきれいならそれでいいじゃないか。そうおもう。おれはね、そうおもうんだ。けれどもなんなんですかこの世界。見てごらんよ、ほら。みんな、洒落てる。

 

 社会に生きるとはみんなに合わせる、ということである。おれはいままで襤褸の袷一枚でなんとか凌いできた。そのせい(そのせいじゃないかもしれないけれど)で白眼視され続けてきた。それでもよかった。おれひとりの人生ならば。しかし、いまはこの子がいる。息子がいるんです。

 

 このままの汚い身なりでは子どもが軽蔑される。そんなかなしいことはない。それはつらいことだよ。だからおれはがんばって不退転の決意をする。行こう、H&Mへ。ということで過日、ショッピングモールに出かけたのである。

 

 なぜにH&Mなのか? という疑問に答えなければならない。理由はふたつ。①舶来の衣類のため衣類乾燥機に強い。②他キッズとあまり被らない。③息子の好きな恐竜をモチーフにしている。④洒落てる。よっつあった。

 

 子どもの成長というのは著しいものがあって、すぐに衣類がサイズアウトしてしまう。だから「これでいいか」という急場を凌ぐ気持ちでやってきたのだが、日本向けの製品は衣類乾燥機に弱く、すぐにぺらぺらになってしまうし、なにせ拙息はファッションにうるさい。これはいやだが、あれは着る。なんて品隲がはなはだしいのである。

 

 そんな彼をゆいいつ陽動できるのが「恐竜」であり、これをモチーフにしているものであれば、いとも簡単に随意の衣服を装着せしめることができるのである。

 

 だから行こう、H&Mへ。さぁ。しかし問題がある。妻と嬰児である次男にはまだ外出許可がおりておらず、買い物に行く場合、おれと息子のふたりで出かけなければならない。

 

 おれも息子も買い物が嫌いである。資本主義に加担しているような気がして。というかたぶんちょっとビョーキなのだとおもう。早く帰りたい病。おれはひと気のおおい場所が苦手だし、いろんな「これを買わないとお前は死ぬ」的、不安を扇動する旗幟鮮明な企業広告が目端にはいってくるとクラクラとめまいがしてしまう。

 

 息子は息子で暴れ放題である。口をひらけば「はやくかえろうよ」。まいるね。参るスデイビスだね。でもそんなことじゃ生きて行けない。それに息子ももう四歳だ。おれとふたりで買い物くらい出来なければ、男としての名折れだ。

 

 そのショッピングモールは東西に伸びており、東がブルー、西がグリーンなどと地区をカラー分けしている。おれたちが行きたい場所はブルーに近く、この付近に駐車できれば早道に買い物が可能である。

 

 しかし、このブルーとグリーンというありきたりな配色のせいだとおもうのだが、おれはなぜだかグリーンに駐車してしまった。ゴールドとパープルとかにしてほしい。

 

 まぁ買い物はなんとかなった。しかし、吸い込まれるようにトイザラスにも行ってしまった。そして偶然にもトイザラスがたな卸しなのか、超大安売りをしていた。なにも買わないわけにはいくまい。と、なぜだかホットウィールのスロットカーという玩具を購入してしまった。3500円が1750円になっていたので、結果として1750円の得をした、という計算になるが、なぜだか手許不如意。息子のMA1姿はかっこよかった。帽子も似合う族。ふたりでがんばったね。

新築街の悪魔

 家庭のあたらしいメンバー、螳螂のラッキーくんに餌をあたえるため、ちかくの畑まで歩を運び、モンシロチョウの乱獲をおこなっているため、いま世界ではモンシロチョウが絶滅の危機に瀕しているという。ゆゆしきことである。

 

 さいきん、虫に対する属性がついたというか、むしろその先。すなわち、虫を捕獲することに一種の快感を覚え始めたというか、中空をふくむ三次元を自由闊達に飛翔する虫けらをタモにおさめるあの瞬間、「勝った」とおもう。そして、おれの脳内にはアドレナリンとかドーパミンとかセロトニンとか云ったさふいふものが放出されてゐるのだらふ。

 

 さふしてゐると、近所の子どもたちも外に出てくる。ようたにとって年上の子が多い。小Ⅱ、小Ⅰ、五歳児が三名。四歳児も他に二名いる。ほかには三歳児が二名。二歳時が一名。一歳児が一名。そしてわが係累であるゼロ歳児が一名。子どもめっちゃ多い。

 

 ようたは四歳児に比してでか目なので、おそらく五歳児を自分と同等にみているふうがある。なので年上の子たちとよくつるんでいるのだが、かけっこでもボール投擲でもついて行けない。ルールもまだあまり通じない。なので、よく負けたり、置いてかれたりして泣いている。

 

 サムライの魂をもっているのか、気位が高い。プライドだけはいっちょまえである。負けることは死ぬことよりもつらい。強くあれ。それでもみんなと遊べるのはとても楽しそうだ。

 

 莞爾と笑うその顔をみていると、ここに引っ越してきてよかったな、とおもう。公園に行かなくても、子育て支援センターみたいのに行かなくても、遊べるお友達がたくさんいる。たのしそうである。こないだみんなで虫々マウンテンを普請した。

 

 おれは苦手だが、親同士の付き合いも良好である。妻は近所のひとと話しているのが楽しいと云う。さらに云えば、親の援助が得られないおれたちだが、近所のひとが「ようたくん見てるよー」と云ってゼロ歳児の授乳中にようたを預かってくれる。すごく助かっている。

 

 おれたちは運が好いとおもう。きっとこれは特殊なケースなのだとおもう。ありがてぇな。マジで。

 

 しかし、この周囲には子どものいない家庭もいらっしゃる。地獄だとおもう。土日、宵闇がこの町をつつみこむまで、子ども甲高い声が響き渡り、市道、私道を駆け回る子どもたちに気兼ねして車を発進させるのにも細心の注意が必要なのである。

 

 そういった子ナシファミリーを思うと、ここは悪魔の住む場所のようにおもう。つらいだろうなぁ。いや、おれらが「大きな声だすな」と諌めればよいのだけれど、子どもが数人あつまればコントロールが効かない。いや保育園とかたいへんだとおもう。

 

 そんな悪魔的な新築街であるけれども、子アリの当事者であるおれたちにとっては、マジけっこういいかんじの住みかだとおもう。足元には白墨で描かれた解読不可能な記号の連続。耳をつんざく金切り声。見上げた空には入道雲が緋色に染まっていた。おれの肩にある涙の滲みに夕風が吸い付いてひんやりとする。ちいさな世界が回っている。

「最終的には奥田民生になりたいとおもっています」

 天下りの多い会社でやばいとおもう。弊社。こないだ、また「顧問」という肩書きの、見知らぬ御大と面談する機会があったのだが、おもわず「最終的には奥田民生になりたいとおもっています」と、口からこぼしてしまうところであった。

 

 というのも、「これからどうなっていきたい?」などという愚問を突きつけられたからである。おまえ、この会社だとおれのほうが先輩だぜ? 敬意、しめそうぜ? という感情が湧きあがったが、しょせん敵は老人。ここは鷹揚な若者の精神で赦してやることにしたのである。

 

 どうなる? おれはおれだよ。って。そういうことではない。アイノウ。まぁ、無難に立身出世のコースを歩きたいですね。まずは基本給を上げてくれないと困りますね。あ、うちですか? 共働きです。そうです。あはは、私のお給銀が低いからですね。ひとつの家庭も養うことのできない会社です。恥ずべきです。純利はけっこうあるのにですね。どこに消えるのでしょうかね。

 

 そんなことを言ったってしょうがないじゃないか。つってじゃあ正直に、おれはおれの心のままに、ありのままに、有体に、素直な自分を表現するならば、やっぱぶっちゃけ奥田民生になりたいとおもう。

 

 これは彼の生き方、思想、ライフスタイル、ラーメン、カレー、ミュージックに憧れる、というよりも、もうほんと本人になりたいですね。けっこうマジで。レスポールスペシャルにビグズビー付けたのも彼のせい。弦の交換クソめんどい。けれども奥田民生になりたいんだからしょうがない。とおもって超大なストレスを感じながらビグズビーという重荷をギターに背負わせてる。

 

 といっても、民生の音楽はサボテンミュージアムという音源を聴いたぎりなのだけれども、けれどもおれの心には奥田民生がいつでも住みついている。住み着いているし、なにか人生の岐路に立たされたとき、心のなかの奥田民生が「いいんじゃない、それで」みたいなかんじで言ってくる。

 

 そういう「なんでもいいじゃん」みたいなの。飄然としている。そのかんじ、おまえマジでかっこいいな、とおもっている。けれどもひとたび音楽面になると、常識ではちょっと考えられないくらいのこだわりをみせるのである。

 

 そこがかっこいいじゃん。有髯たる男子の理想のありかたといえる。やばいじゃん。なりたいじゃん民生に。ってゆうか、逆に訊くけど奥田民生になりたくない男っているの? ってなもんであるよ。ほんと。

 

 じゃあこれから民生になりにいこう。みたいに出来ないのが悔しい。ギャル男になりたいから、まずは日サロでこんがり焼こう! みたいにできないのである。だっておれはおれだよ。おれの塩基配列はこうなんだもん。でもきっと民生に近づくことならできるんじゃあるまいか。まずなにをすればいいの? それはきっとレスポールスタンダードを買うことだよ、なんておもってもそんな資金があるわけもなく、貧乏とは罪であるよ。まずは基本給を上げてください。

吹き荒ぶ風の上に茜色の空

 うどんやの釜だよ、まったく。って「うどんやの釜」というフレーズを学問したおれはすぐさま使っちゃいたくなるんですな。意味もなく。自分のそういうとこ少年じみてて好き。

 

 さいきんポリスに嵌った。あのポリスである。アップルミュージックに「おすすめ」として紹介されていたベストを聴いたらやっぱアンディサマーズのギターはかっこよかった。「曲がはじまればずっとおれのギターソロ!」みたいな傲慢なタイプではない、ちょっと身を引きつつも曲の補助的な演奏をするタイプ。ドラクエでいえば僧侶だとおもう。

 

 今日は午前中、保護者参観に参った。なんであいつあんなかわいいんだろ。筋金入りのパパっ子だとおもう。工作をして、体操をいっしょにやった。そしてついに謎のベールに包まれていた体操の先生の正体を暴いた。

 

 さいきんマグナムセイバーを買った。ミニ四駆という或る一定の年齢層に爆発的に流行した、あの爆走兄弟の弟機マグナムセイバーである。みてくれが格好良いわけではないが、なつかしさがこみ上げてくるようなフォルムに、胸の奥からカラフルな思い出が湧きあがってくるのである。

 

 男の子には父親がひつようだなとおもう。ミニ四駆が流行したとき、おれ以外のみんなは父親といっしょになってミニ四駆をやっていたので、付ければそれだけでたちまちスピードが上がるというパーツをあらんばかり豪奢に付けていたし、さまざまなミニ四駆大会に遠征したりしていて、こういう男の子の遊びは父親がイニシアチブを取ることによって盛り上がっていくのだなとかおもい、そういう思い出のないおれはちょっといま悲しいかんじになっている。お金かなんかください。

 

 ようやく名前も決まったので出生届けを提出しに市役所に参った。市役所の対応が最悪だった。めっちゃ丁寧だったのである。おれの理想の市役所というものは、受付窓口が機械的な対応、もしくは人を人ともおもわない見下げた対応をすることによって、こちらに精神的侵害受容をあたえる、するとこっちはこっちで怒りのパワーを、ブログかなんかで吐き出すことにより、かつておなじ思いをいだいたみんなで雷同する。一丸となって「憐れな小役人」とかなんとか言って市役所を糾弾する。

 

 すなわち、ここにひとつの市役所というエンターテインメントが完成する。そのはずだったのである。それがどうですか。えぇ? その一般的な企業のサービスカウンターのような態度は。児童手当のお兄ちゃんなんてのは慇懃すぎるくらいであった。駐車場のじいさんも朗らかなあいさつを放ってくれた。もっと、こう、冷たい空気であれよ。硬くて冷感な、魂のないにんげんであれよ。

 

 こうして世の中にじゅんすけという人間が新たに登録された。日本のために人口を増加させてやったぜ、なんて気持ちは毫末もない。好きで産んだ。妻は乳遣りで寝不足。でも、なにかおれに不都合な身の上が起こったら「おれはこうして子どもを二人も育てているんだ」とかいうおごった態度に出て、世の中を痛罵するつもり。だいじょうぶ、ちゃんとそのつもり。