そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

くだらないの中に愛が

 星野源という人を「歌がへただ」とおもう人もいるかもしれない。そう思うのはミスチルの桜井やアイコのことを「歌がへただ」とおもう人が一定数いるからであって、ではなぜ、この人たちのことを「歌がへただ」とおもうか、というと、おそらくそうおもう人は耳が好いからで、なぜ耳が好いと彼らの歌がへたに聴こえるか、というと、彼らの楽曲のコードがオンコード連発でむつかしくて、メロディが浮いているように聴こえてしまうばあいがあるから、なんじゃないかな、なんておもった。まぁとにかく星野源はやばい。天才だ。

 そんなことを思いながら昨晩。私と妻はついに成し遂げた。ついにウォーキングデッドをシーズン7まで見終わったのだ。漸く現在絶賛放送中のシーズン8においついたのだ。これでネタバレがこわくない。

 しかし問題はわれわれが加入しているアマゾンプライムビデオでは、シーズン8は有料課金がひつようであって、そこまでしてみなければいけないか、といわれると、なんだかもっとやるべきことがあるような気がしてならない。焦燥感をかかえている。

 ともかく。今夜は喜び合おう。そうして共に興奮冷めやらぬまま、床に臥したのだが、ウォーキングデッドへの思いが強くなってしまい、眠れない。

 そうしてお互いに今日の感想、などを話し合っていたのであるが、それはなんだか、そこはかとなく、修学旅行で消灯後にわきあいあいと話し合う友達のようなニュアンスがあって、すてきだった。

 もちろんこれからのウォーキングデッドの話をメインに据えたが、夕食にあったえのきの話などをした。ちょっと塩っぱかったけどね、なんつって。時間が経ったからえぐみがつよくなったね、なんつって。いやーそうでもないでしょう、なんつって。えのきはバターしょうゆがあうね、なんつって。でも今日食べたのってしめじだよね、なんつって。くっくっく、なんつって。

 妻とはかれこれ十三余年の付き合いになるが、いつまでこうして友達のように話していられるのかナァなんておもった。くだらない話をしているときがいちばん楽しいのかもしれない。

狂った遠近法

 十一月十一日。土曜。晴れ。桃色のグラデーションが空色とまじわる朝、そしてツイッターで「ベースの日やで」とさかんに手持ちの低音弦楽器を晒しまわす朝だった。

 その午前。妻が労働により不在。三十一歳の霊長類が借金で売買契約をした陋屋で、その息子たる三歳児とともに息をしていた。吸ったり吐いたりする空気はするどく冷たかった。

 近くの公園にいった。息子は、飛行機の公園に行きたい、と申していた。飛行機の公園は遠いんだよ、と答えた。まだ「近い、遠い」がわからない。ちなみに「いつ」もわからないので不便だ。

 近くの公園で遊戯した。ダウン症? とおぼしき少年が祖母らしき人といた。息子よりも少し年齢がうえの子だった。帆船を模したすべり台で出会った。そのすべり台は昇る場所が三箇所ほどあり、息子はついにとうとう、いままでできなかったロープ式の昇降場所からなんなく昇ることができた。

 しかしそのダウン症ふうの男の子は、息子がなんなく通過する足場が格子上になって地面が透けている場所を「恐怖である」と陳情し、歩行に難儀していた。それを見ていた祖母らしき人は「小さい子でもできるのに、いくじなしね!」と言っていた。

 「小さい子でもできるのに」というのはたしかにそうなのだが、俺は胸裏で「ダウン症だから仕方ない」と思っていた。しかし、それって差別なのかな? ともおもった。それよりも純粋に「いくじなしね」というほうがダウン症の子に対する差別ではないのかな、とおもった。

 しかし、今現在。社会は個性を大事にしている。資本主義が行き詰まり、個人主義が横行している。そんな個人をたいせつにする、という点でダウン症であろうがなかろうが個人の得手不得手における不得手を「ゆっくりやればよい」と思うのは、差別ではなく純然と「個」を尊重しているだけではないのかな、という自分の葛藤があった。息子はその子に向かって透明な声で「がんばれー!」といっていた。

 遠くで父親らしき人とその嬰児があそんでいた。その嬰児がよたよたとあるき、ぽんっ、とまろんでしまった。そのとき、息子は「だいじょーぶかーい」といっていた。すきとおった空気に声は響いたが、届いたかどうかは判然としない。しかし、やさしさに泣いた。俺が。

 夕食はすべてがめんどくさくなったので幸楽園というラーメン販売所ですませた。息子は「本日は近くの公園に赴いた」という旨を妻に伝えていた。しかし、そのあと「近くとはどういった概念だ」と質問をするので、テーブルの割り箸を指し「これがちかくだ」と言い、窓からのぞく国道を走る自動車を指して「あれがとおくだ」と説明した。

 でもそうすると今日行った「近くの公園」は「遠くの公園」になってしまうなぁ、なんて思ってもうどうしようもなかった。夕刻。ひんやりとした闇のなか、まぶしいヘッドライトに照らされると暖かいような感じがした。握った掌は常温だった。

こんなクソ人間からでも芸術は生まれる

 

 人間のくずとして生まれて幾星霜。軽蔑され、嘲弄され、野良犬のような生活をつづけてきた。でもかなしくなんかないもん。だって、ときおり芸術的なものを生み出せることに気がついたから。今朝もそうだった。完璧なうんこが出たのである。

  「完璧」というとパーフェクトという意味なのだが、もうそれは美しいほどの理想てきなうんこだった。うんこの美しさはやはりその色彩、大きさもさることながら、形状が肝要だとおもわれる。

 それはまっすぐな意思だった。愚直ともいえる。自分が生み出したものをこんなに称揚することは手前味噌なのだが、先頭から終わりまで徹頭徹尾として思い描く理想的なうんこだった。それは象徴としての抽象的な巻きクソのようなものではなく、誰もがいちどは経験したことがあるであろう実証的な、そして原風景的なうんこだった。

 こんなクソみたいな人生をおくってきた境涯からして、かくなる僥倖に出会えるなんて人生すてたもんじゃないなぁなんて思ったのだが、ひとつ心に残る点をみつけた。 

 うんこというものは排泄物であってきほんてきに汚物だ。クソみたいな人間が汚物を垂れ流したら、それはつまりマイナス×マイナス、という公式が成立し、そのマイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスという「正」の属性をもったものが誕生することであって、そうか、こんな美しいうんこをひりだせる俺はやっぱりクソ人間なんだなぁ、とかなしくなった。

 そんな三十一歳の秋。天高くすみわたった空はどこか物憂げだった。

今週のお題「芸術の秋」

 

まるで天秤のようだ

 あっちのブログを間違えて公開してしまい、購読ブログにあがってしまったので急遽こちらで書いたブログを本ブログにアップしたのだが、こちらで一度あげてしまった内容なので、こんだぁこっちが上がってしまって、じゃぁこっちにもなにか書かんとナァとおもっているのだけれども、とくに書くことが無いから私の半生でも綴ろっかな。

 私は外交官の父と、モデルの母の間に生まれた。一九八六年、八月のロサンゼルスの産院だった。難産でたいへんだった、と母は語っている。

 そうしてロスで幼少期を過ごしたのだけれども、幼いころからIQが以上に高く、二歳の頃には論語を読んでいたという。そうして七歳の誕生日をむかえたときに大学の入試に合格して飛び級した。専門は異次元間における空間の立体的推移と宇宙塵チェレンコフ光線について。

 大学に入れば忙しくなるぞ、ということで、その夏。自家用の超音速機コンコルドにのって世界を巡っていたんだ。

 それはあまりにもいろんなところに行ったものさ。いちばんたのしかったのはマダガスカルだな。極秘にクローンで蘇らせたエピオルニスとかを見させてもらった。父は「いくらで買えるのか」といって政府の役人を困らせてたっけ。

 そうして運命の日がきた。わすれもしない。私たちがプエルトリコ上空を通ったとき、烈しい光につつまれた。世に言うバルミューダトライアングルだった。

 そうして気がつくと私は日本の静岡、安倍川の河川敷にいた。呆然とダンボールの中、「世捨て人です」の看板を持ち、立ちすくしていたところ、いまの母と呼べるべき望月氏にひろわれたのだった。

 生活しているうちに気がついたのは、過去の記憶がまったくないこと。そしてIQが一般人レベルまで低下していたこと。そうしてなにより特別だったのは左の目がなくなっていて、その代わりにその目玉から気色の悪い人体が生え、甲高い声でしゃべり続けてくることだった。

 どうやらその目玉の生命体には、バルミューダトライアングルで散り散りになった父の思念が封じられているようだった。だからわたしはこれを「とうさん」と呼んでいるのだけれど、もう日本の魑魅魍魎がおそってきて毎日が墓場で運動会。たのしいな。たのしいな。なんつって、生き別れた母を探している。

どうぶつえんにいった。

 過日。動物の観察がしたい、と息子がもうすのでアフリカにいこうとおもったがカネがないので断念した。代替案として上野動物園にいった。

 ちなみに息子の数少ない語彙のなかでは「上のどうぶつえん」であり、「下のどうぶつえん」も存在するらしい。きっと「横のどうぶつえん」も「ななめのどうぶつえん」あるんだね。

 檻のなかには空輸、海運によりうんぱんされてきた世界各国の珍獣が悠然とくらしていた。アフリカ産のきりんを発見したときの息子の幸甚の至りをおれは一生わすれないだろう。パンダは笹を食っていた。しかし所詮はメイドインチャイナだろ、とおもった。あとやっぱ爬虫類、両生類はだめだ、おれは。

 ホッキョクグマ。アザラシ。北極圏の動物に沈湎していた。たのしそうだった。飯を十一時前にすませたら迷い戸惑う後発組みに「今日」という一日において勝ったきがした。めしをはやく食うのは手軽に勝ち組になれる。

 さて帰ろうか、という段になってひとつの事件がおこった。おれの首筋に烈しく鋭い痛みが奔った。ひかくてき痛みにつよいこのおれが「いてぇ!」と咄嗟に叫んでしまうほどの痛みだった。

 なにがおきたのか。ぽとり、と足元にひとつの影がおちた。ミツバチだった。あろうことかこのミツバチは俺を毒殺しようとおもったらしい。刺されたポイントは水ぶくれのように膨張した。ちかくに総合案内所と救護室があったので駆け込んだ。

 せっかくのたのしい一日が一匹のミツバチにより憤怒の一日に彩られた。むかついたので家に帰宅してから壁に擬態させてある秘密のスイッチを押した。床の間の壁面がくるりと一回転し、地下へとつづく道になった。

 そこには洋の東西を問わぬ、さまざまな武具の類が整然とならんでいた。そのなかでも、俺はアメリカ軍製のメタリックな赤とゴールド色に装飾されたパワードスーツを選び、身に纏い、空を駆け、音速でハチのアジトへと向かった。

 ハチたちは今日の武勇伝をかたりあっていたのだろう。「おれはふたりやった」とか「おれはこれで百人目だぜ」というふうなことを読唇術でよみとった。やつらは祝杯をあげ、すこし酔っていたふうだった。

 そこへアイアンマンみたいなおれが推参した。やつらは呆然としていたが、一匹のハチを上段から斬り捨てると、その血煙に己を取り戻したようだった。しかし、もうそれは遅い行動だった。

 おれは一匹のハチを残して惨殺した。その一匹とは俺の毒殺をたばかったあのハチだった。なかまや家族の体液でぬらぬらと濡れた顔面は凄愴な顔つきをしていた。ハチはおびえていた。ヤツの腕の中にはヤツの息子と思わしき一匹のちいさなハチが死骸となっていた。

 同情はしなかった。俺はヤツの六本の節足を打ち抜き、生きたままの苦しみを与えた。触覚をむしり、顎をちぎり、目をつぶした。そうして中国の漢方屋までもっていき、なんかそういうハチの酢漬けみたいなのにさせた。なんだこの話。

ほうじ茶ラテとかいう秋最強のドリンク

 

 あるいは、と文頭へ唐突に接続詞をもってくると、なんだかかっこよいですよね。ってゆうか、日本皇国にうまれおちた僕た私たちはやはり四季を感じていたいナァなんて思う。

  そうしたわけで季節を感じる。秋。やはり秋というのは感傷的なきぶんに陥りやすい。思い出というのはとくににおいから喚起されることがおおく、金木犀の甘く突き抜ける香気はやはり俺の思い出を呼び起こす。とくに思い出なんてないんですが。 

 しかしこの感傷的なきぶんというヤツは非常にやっかいなもので、政府の危険物認定がそろそろおりるかもしれない、というのはもう完全に嘘ですよ。って感じでこの三段落目まで、もういっさい意味のない文章を打ってしまいましたね。でもセンチメンタリズムというのはヤバイ。

 なぜならば、このセンチなきぶんがある一定量をオーバーすると死ぬ可能性がある。だって、センチメンタルというのはやっぱ今よりも昔を思うもので、その今が昔よりも劣悪な状況のばあい、明るい未来を嘱望することが出来ずに「あきらめ」の気持ちが強くなり、車に目張りようのガムテープと七輪、練炭を勘定して高速にのって富士の樹海へびゅーんってかんじなこともあるかもしれないからだ。

 それはやばい。だれかおれの孤独を、懊悩を、未来を、あたためてくれ! っておもって購入したのが、タイトルのほうじ茶ラテというドリンクである。やっとタイトルに追いつきましたね。

 そもそもほうじ茶がうまい。この香ばしいにおいはなんなんでしょうか。お茶特有のカフェインもすくなく、夜寝る前なんかに吻合する飲み物ですよね。

 それを、そのほうじ茶をあろうことか、牝牛から絞った体液で抽出し、その香ばしい残滓をおいたままに、濃厚な口当たりを可能にしたのが、かくなるほうじ茶ラテである。人間のエゴすげぇ!

 このほうじ茶ラテなにがすごいかっていうと、まぁなんだかコールドドリンクであっても、なんだかあったかい気持ちになるのだ。これはミルクティーなどにも似た副作用が見られるが、私という人体実験をおこなった結句、薫りの部分でほうじ茶ラテのほうに軍配があがると思われる。

 秋風のセンチメンタルによって、ひとりぼっちになったさびしい心に、ほうじ茶ラテをそっと注いでみる。あぁ、むかしもよかったけど、今はほうじ茶ラテがあるじゃあないか。こんな平成の世に生まれてこられて、ほんとうによかったなぁ、なんて思う。だから秋にはほうじ茶ラテが最強なんすよ。って支離滅裂。そして。

 

寝ゲロ、笑えない

 

 昨晩。息子がめっちゃ寝ゲロした。吐瀉物の大洪水だった。原因は風邪、による通院、による帰宅の遅延、による夕飯の遷延アンド咳とからまる痰、だと思われる。ふとんのシーツをとりかえ、洗濯をおこなった。それは深更にまでおよんだ。

 寝ゲロはきけんだ。ジミヘンもボンゾもそれで死んでいる。彼らは酔っ払っていた、というものあるだろうけれど。しかし三歳児が苦しくなったとき、その危機的状況を自己解決できるとはとうていおもえない。

 彼はそのあとも眠り続けていた。また嘔吐する危険性があったためどちらかひとりは息子の監視をすることにした。そうして私と妻は交代で家のことをした。

 朝。息子にシャワーをあびさせた。いやがったがまんじゅうで釣った。昨日、職場でいただいたものだった。小川さん、ありがとう。全部だしてしまったからだろうか、朝めしをむしゃむしゃ食べていた。かきたまうどん。そのうえまんじゅうを四つも食った。

 まんじゅうは「日本三大まんじゅう」のひとつ、らしかった。はじめて「日本三大まんじゅう」という概念を知った。いったい誰が決めたのだろうか。日本三大委員会とかがあるのだろうか、とおもった。たぶん文部省管轄。

 とにかく寝ゲロは剣呑だ。きをつけたほうがよい。俺も酒を死なないていどにしなければならないな、とおもった。さすがに昨晩は飲まなかった。そういえばその朝はガラスの回収日だった。たいりょうのウイスキーの壜がつまった袋はがしゃがしゃ鳴っていた。重たかったし、これをみた近所の住人が「業者?」とかん違いするような量だな、と妻といつも笑っている。いや、笑えない。