そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

まったくもってファック

 

 竹原ピストルの歌詞に「神さまはいるとおもうかい? ちげーよ、居るか居ないかではなく、要るか要らないかの話だよ」というふうなのがあって、個人的には「要る」んじゃないのかとおもっている。たぶんよくわかんないけどうちは浄土真宗じゃねぇかな。

 

「宗教は貧者の阿片」なんて文言もあるけれど、漠然とした神仏の意識があるために、お地蔵さんとか達磨さんは細心の注意をはらって丁寧にあつかうし、神社仏閣では品行方正につとめるようにしている。おそらくおれは罰を恐れている。

 

 過日。息子と散歩にでかけた。国道に架かる歩道橋をわたって、団地を横目にぐんぐん進むと、突如として異空間があらわれる。神社があるのである。寂寞というよりは清らかな森閑というかんじで、林立した樹木が落としている密やかな翳りが、ちょっぴり畏怖の感情をひき起こす。

 

 名前のわからない落葉樹が、滅びを運ぶ秋風にゆれて落ち葉を積もらせている。冷ややかな木々が息づいた香気のなか、柔らかな感触の落ち葉を踏みしめると、湿り気を帯びた土と緑のにおいが濃厚に立ち昇る。めっちゃマイナスイオンみたいなのを感じる。

 

 鳥居をくぐると、やはりそこから浄域のごとき、霊験あらたかな空気に満ちていて、下手なことはできないぞ、という念が湧き起こる。あと木陰に狐面をかむったヤバいひとがいそうでちょっと怖い。

 

 敷石の小道をまっすぐ歩く。なんだかその石の冷たさが、スタンスミスを通り抜け、身体の芯までとどいているような錯覚におちいる。すなわちこれこそがイッツ神パワー。身のうちから起こるこの震えのようなものもイッツ神パワー。イッツ神パワーと言いたいだけです。

 

 風のざわめきと、鳥のこえ。本殿のうえには吸い込まれそうな秋の蒼穹。光と翳のコントラストでそこに救いがあるように感じられる。うまい建築を考えたもんだね。おれはだまされないけどね。

 

 賽銭箱を前にし、ようたに「ここにこう」と云って、十円玉を投擲する。握り締めていた十円玉はおれの体温で36度くらいになっていた。一揖二礼二拍手一礼一揖なんてのはしないけれど、ガラガラを鳴らし、手を打って、祈願をする。ここでさもしいおれの心が発動する。

 

 たいてい神社に参拝する場合、その祈願には自己本位的な願望が根底にある。しかし、そんな俗物的なもんじゃありませんよ、神さま。おれはそんなんとちがうんですよ。というところを見せたいのか「いつも見守ってくれてありがとうございます」とおもったのである。

 

 それでいいじゃねぇか。とおもうじゃん? しかしほんとのおれ気持ちは「俗物的な祈願などをしないことによって神に、コイツはちょっとちがうぞ、と認められ、ちゃんと感謝してて偉いね、お願いごと叶えちゃおっかな、と神に良いやつだと思われようとして、いつも見守ってくれてありがとうございます」と思ったのである。

 

 なんて厭らしい心なのかしら。ああ、いやだ。そんな30代。ああ、気持ち悪い。まぁ自分ひとりでそんなことをおもうならいいのだけれど、おれはそれを息子にも強制したのである。彼の信仰の自由を奪ったのである。

 

 神社のそばに、ちいさな公園がある。風解によって褪色しきったブランコに、錆びだらけのすべり台。苔、超むしている。そこで少し遊んで帰った。ようたとゾイドの歌とウルトラマンルーブの歌をあやふやにして歌った。

 

 右の掌には賽銭のときに握っていた十円玉のにおいが残っていた。いや、これは遊具の錆びのにおいなのか。ほんとのことはわからないけれど、帰って食った吉田うどんがうまかった。