自由律俳句 「チンコ描いて包茎」
「咳をしてもひとり」
夜中にふと目覚めて居間に行き、そこでコホンと咳をした。
そこで思い出したのがこの言葉。
尾崎放哉という方の俳句だそうだ。すごいらしい。
しかし、だいぶ私のしっている俳句の概念と相違があるなぁ。
どういうことか?と、グーグルイッパツ検索をこころみた。
こういうのを自由律俳句というらしい。
五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに重きが置かれる
もうなんでもありやん!というツッコミ待ちのウィキペディア。
たまにこういうのがあるからネットというのは面白い。
しかし、この3語づつのリズム。また内容から醸し出される侘しさ、寂しさの世界。
たしかに、なんとなくすごいなぁ。と思う。
けど、私にも出来そう。ちょっと作ってみよう。となぜだか急にチャレンジ精神が湧き出た三十路のおっさん。ちなみにこのブログは音楽ブログ。なんだろう、最近とんでもないところに迷い込んでいる。
思い立った表題の句「チンコ描いて包茎」
著者、著作を語る。ずいぶん恥ずかしいが、この作品のすごいところを解説したい。
まず、これは実体験に基づいている。
著者は中学生のころ、例に洩れず性に興味があった。
直接的に陰部を連呼する時期は過ぎ去っていたが、隠喩的にそれを表現し、みんなでケラケラと笑っていた。男子なら思い当たる節はあるとおもう。
ある時、その陰部をみんなで紙面上に象徴描写するタイミングがあった。
おもいおもいの自己の陰茎を描写する。
私が描いたのは以下のようなものであった。
クレヨンしんちゃんの世界です。
私はかわいいゾウさんを描きました。当時13歳の少年はまだ真の姿を現していなかったのです。
しかし、みんなが描いたのは以下のようなものだったのです。
美しくもかっこよいロケット型でした。
つまりこれはどういうことか、というと友人たちは、それが本人のモノであるか事実の正否はわかりませんが、そのタートルヘッドが露になった姿を描写していたのです。
私は私のしっている陰茎と、みんながしっている陰茎についての知識の差に愕然としました。まさに尾崎放哉の句が俳句というカテゴリーであったかのように、私の知っているものと世間の意見が違うという衝撃。
のちのちに、私は包茎のおちんちん。みんなはズルむけのおちんちんを描いた、ということに気が付きましたが、当時の少年の気持ちを考えるとなんだか侘しさが湧いてきます。
つまるところ、この句には、
知らず知らずにまわりのみんなが大人になる侘しさ。
それに気付かずに少年のままでいようとする寂しさ。
が現れているのです。
俳句は、侘びさびの世界だと感じています。それが如実に現れているいい句です。
いつの間にか丁寧語になってしまいましたが、それも赤裸々な事実をおおっぴらにして大人になるという変化。
という下ネタ、作画ネタにとうとう手を出してしまった。
しかし、自作のゾウさん、なかなかの出来だ。ニヤついてしまう。
「ニヤついてもひとり」
深夜のテンションですね。ちなみにいまはちゃんとムケてます。