そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

ティアーズインヘブン

 帰宅時、ふいに稲妻に打たれたかのような衝撃が走った。食パンを買う。その一大プロジェクトを忘れていたことに気がついたのである。

 

 踵を返し、ちかくの市場に向かう。さむくなりましたね。食パン8枚切りをチョイスし、いざレジスターへ、と決意を胸にしたところ、手の届く範囲に菓子コーナーがあったため、ポップコーンを手に取り購入した。

 

 食パンをひとつだけ購入することに気負いがあったのである。食パンをひとつだけ購入することによって、おれの生活スタイルがレジスターのひとに見破られてしまうし、なにせ「このひとめちゃくちゃ食パン好きなのかな」なんておれの人物像を勝手に想像されるのも癪である。

 

 しかし、このように同時にポップコーンを購入することによって、食パンはついでの買い物、とショッピングの目的を朧げにすることが可能である。こいつ、一体どっちがほんとうに欲しいものなんだ……とレジアタッカーは懊悩したにちがいない。

 

 宵闇に紛れ帰宅し、スーパーの袋を差し出したところ、妻の顔が驚きの気色を見せたのがわかった。矢庭にその気色はいくぶんか憂いを帯びていき、「食パン、ネットスーパーでたのんじゃった」と言ったのである。

 

 オーマイベイビー。それを早く言ってくれないか。そんなこんなで拙宅には食パンが二袋並んでいる。食パンが二袋あるとさすがに重々しいふんいきを放ちますね。

 

 ようたがポップコーンと言えない。ポックポーンになってしまう。かわいい。すごくかわいい。わーい、ぽっくぽーんだぁ。っておまえ、かわいいな! すごくいいな! あざあとくないんだよかわいさが! 妻と「この言い間違いは直さないでおこう」と決めた。

 

 ポックポーンをすこしつまんで、野菜スープで食事をし、ようたと風呂に入ってちんこを比べた。「でかいほうは攻撃があたりやすい。ちいさいほうはすばしっこいので結果強い」理論を展開され、おれのちんこは敗北を味わった。負けた気はしていない。

 

 こないだ。ガスファンヒーター用の普請をした。めっちゃあったかい。とてもいい。換気せよ、との警報が鳴り響くが、換気はきほん健康管理の骨子だとおもってるしピーピー鳴ってもまぁ許せる。

 

 ここ数ヶ月は死んでもクイーンが聴けないためツェッペリンを聴いた。アキレス最後の戦いがいちばん好きです。クラプトンがクリスマスアルバムはただのブルースアルバムです。サカナクションを聴いていたら、ようたが「おどりたくなっちゃった」と言うのでいっしょに踊った。セントビンセントをギタリストと言われるとちょっと違和感がある。妻が乳をまるだしにして寝ている。ドラクロワの絵のようだ。ネットフリックスでデビルマンクライベイビーを見始めた。毎日が過ぎてゆく。おれは今が一番若い。

まったくもってファック

 

 竹原ピストルの歌詞に「神さまはいるとおもうかい? ちげーよ、居るか居ないかではなく、要るか要らないかの話だよ」というふうなのがあって、個人的には「要る」んじゃないのかとおもっている。たぶんよくわかんないけどうちは浄土真宗じゃねぇかな。

 

「宗教は貧者の阿片」なんて文言もあるけれど、漠然とした神仏の意識があるために、お地蔵さんとか達磨さんは細心の注意をはらって丁寧にあつかうし、神社仏閣では品行方正につとめるようにしている。おそらくおれは罰を恐れている。

 

 過日。息子と散歩にでかけた。国道に架かる歩道橋をわたって、団地を横目にぐんぐん進むと、突如として異空間があらわれる。神社があるのである。寂寞というよりは清らかな森閑というかんじで、林立した樹木が落としている密やかな翳りが、ちょっぴり畏怖の感情をひき起こす。

 

 名前のわからない落葉樹が、滅びを運ぶ秋風にゆれて落ち葉を積もらせている。冷ややかな木々が息づいた香気のなか、柔らかな感触の落ち葉を踏みしめると、湿り気を帯びた土と緑のにおいが濃厚に立ち昇る。めっちゃマイナスイオンみたいなのを感じる。

 

 鳥居をくぐると、やはりそこから浄域のごとき、霊験あらたかな空気に満ちていて、下手なことはできないぞ、という念が湧き起こる。あと木陰に狐面をかむったヤバいひとがいそうでちょっと怖い。

 

 敷石の小道をまっすぐ歩く。なんだかその石の冷たさが、スタンスミスを通り抜け、身体の芯までとどいているような錯覚におちいる。すなわちこれこそがイッツ神パワー。身のうちから起こるこの震えのようなものもイッツ神パワー。イッツ神パワーと言いたいだけです。

 

 風のざわめきと、鳥のこえ。本殿のうえには吸い込まれそうな秋の蒼穹。光と翳のコントラストでそこに救いがあるように感じられる。うまい建築を考えたもんだね。おれはだまされないけどね。

 

 賽銭箱を前にし、ようたに「ここにこう」と云って、十円玉を投擲する。握り締めていた十円玉はおれの体温で36度くらいになっていた。一揖二礼二拍手一礼一揖なんてのはしないけれど、ガラガラを鳴らし、手を打って、祈願をする。ここでさもしいおれの心が発動する。

 

 たいてい神社に参拝する場合、その祈願には自己本位的な願望が根底にある。しかし、そんな俗物的なもんじゃありませんよ、神さま。おれはそんなんとちがうんですよ。というところを見せたいのか「いつも見守ってくれてありがとうございます」とおもったのである。

 

 それでいいじゃねぇか。とおもうじゃん? しかしほんとのおれ気持ちは「俗物的な祈願などをしないことによって神に、コイツはちょっとちがうぞ、と認められ、ちゃんと感謝してて偉いね、お願いごと叶えちゃおっかな、と神に良いやつだと思われようとして、いつも見守ってくれてありがとうございます」と思ったのである。

 

 なんて厭らしい心なのかしら。ああ、いやだ。そんな30代。ああ、気持ち悪い。まぁ自分ひとりでそんなことをおもうならいいのだけれど、おれはそれを息子にも強制したのである。彼の信仰の自由を奪ったのである。

 

 神社のそばに、ちいさな公園がある。風解によって褪色しきったブランコに、錆びだらけのすべり台。苔、超むしている。そこで少し遊んで帰った。ようたとゾイドの歌とウルトラマンルーブの歌をあやふやにして歌った。

 

 右の掌には賽銭のときに握っていた十円玉のにおいが残っていた。いや、これは遊具の錆びのにおいなのか。ほんとのことはわからないけれど、帰って食った吉田うどんがうまかった。

 

驚きと感謝をこめて

 金持ちと灰吹きはたまるほど汚い、なんて言うけれど、それに比してどうですかこの身の清らかさは。清貧。すばらしいことじゃないか。ビーティフルアンドワンダフル。生まれたぼくたちは美しい。

 

 たとえ着合わせのものはみすぼらしくても、心がきれいならそれでいいじゃないか。そうおもう。おれはね、そうおもうんだ。けれどもなんなんですかこの世界。見てごらんよ、ほら。みんな、洒落てる。

 

 社会に生きるとはみんなに合わせる、ということである。おれはいままで襤褸の袷一枚でなんとか凌いできた。そのせい(そのせいじゃないかもしれないけれど)で白眼視され続けてきた。それでもよかった。おれひとりの人生ならば。しかし、いまはこの子がいる。息子がいるんです。

 

 このままの汚い身なりでは子どもが軽蔑される。そんなかなしいことはない。それはつらいことだよ。だからおれはがんばって不退転の決意をする。行こう、H&Mへ。ということで過日、ショッピングモールに出かけたのである。

 

 なぜにH&Mなのか? という疑問に答えなければならない。理由はふたつ。①舶来の衣類のため衣類乾燥機に強い。②他キッズとあまり被らない。③息子の好きな恐竜をモチーフにしている。④洒落てる。よっつあった。

 

 子どもの成長というのは著しいものがあって、すぐに衣類がサイズアウトしてしまう。だから「これでいいか」という急場を凌ぐ気持ちでやってきたのだが、日本向けの製品は衣類乾燥機に弱く、すぐにぺらぺらになってしまうし、なにせ拙息はファッションにうるさい。これはいやだが、あれは着る。なんて品隲がはなはだしいのである。

 

 そんな彼をゆいいつ陽動できるのが「恐竜」であり、これをモチーフにしているものであれば、いとも簡単に随意の衣服を装着せしめることができるのである。

 

 だから行こう、H&Mへ。さぁ。しかし問題がある。妻と嬰児である次男にはまだ外出許可がおりておらず、買い物に行く場合、おれと息子のふたりで出かけなければならない。

 

 おれも息子も買い物が嫌いである。資本主義に加担しているような気がして。というかたぶんちょっとビョーキなのだとおもう。早く帰りたい病。おれはひと気のおおい場所が苦手だし、いろんな「これを買わないとお前は死ぬ」的、不安を扇動する旗幟鮮明な企業広告が目端にはいってくるとクラクラとめまいがしてしまう。

 

 息子は息子で暴れ放題である。口をひらけば「はやくかえろうよ」。まいるね。参るスデイビスだね。でもそんなことじゃ生きて行けない。それに息子ももう四歳だ。おれとふたりで買い物くらい出来なければ、男としての名折れだ。

 

 そのショッピングモールは東西に伸びており、東がブルー、西がグリーンなどと地区をカラー分けしている。おれたちが行きたい場所はブルーに近く、この付近に駐車できれば早道に買い物が可能である。

 

 しかし、このブルーとグリーンというありきたりな配色のせいだとおもうのだが、おれはなぜだかグリーンに駐車してしまった。ゴールドとパープルとかにしてほしい。

 

 まぁ買い物はなんとかなった。しかし、吸い込まれるようにトイザラスにも行ってしまった。そして偶然にもトイザラスがたな卸しなのか、超大安売りをしていた。なにも買わないわけにはいくまい。と、なぜだかホットウィールのスロットカーという玩具を購入してしまった。3500円が1750円になっていたので、結果として1750円の得をした、という計算になるが、なぜだか手許不如意。息子のMA1姿はかっこよかった。帽子も似合う族。ふたりでがんばったね。

新築街の悪魔

 家庭のあたらしいメンバー、螳螂のラッキーくんに餌をあたえるため、ちかくの畑まで歩を運び、モンシロチョウの乱獲をおこなっているため、いま世界ではモンシロチョウが絶滅の危機に瀕しているという。ゆゆしきことである。

 

 さいきん、虫に対する属性がついたというか、むしろその先。すなわち、虫を捕獲することに一種の快感を覚え始めたというか、中空をふくむ三次元を自由闊達に飛翔する虫けらをタモにおさめるあの瞬間、「勝った」とおもう。そして、おれの脳内にはアドレナリンとかドーパミンとかセロトニンとか云ったさふいふものが放出されてゐるのだらふ。

 

 さふしてゐると、近所の子どもたちも外に出てくる。ようたにとって年上の子が多い。小Ⅱ、小Ⅰ、五歳児が三名。四歳児も他に二名いる。ほかには三歳児が二名。二歳時が一名。一歳児が一名。そしてわが係累であるゼロ歳児が一名。子どもめっちゃ多い。

 

 ようたは四歳児に比してでか目なので、おそらく五歳児を自分と同等にみているふうがある。なので年上の子たちとよくつるんでいるのだが、かけっこでもボール投擲でもついて行けない。ルールもまだあまり通じない。なので、よく負けたり、置いてかれたりして泣いている。

 

 サムライの魂をもっているのか、気位が高い。プライドだけはいっちょまえである。負けることは死ぬことよりもつらい。強くあれ。それでもみんなと遊べるのはとても楽しそうだ。

 

 莞爾と笑うその顔をみていると、ここに引っ越してきてよかったな、とおもう。公園に行かなくても、子育て支援センターみたいのに行かなくても、遊べるお友達がたくさんいる。たのしそうである。こないだみんなで虫々マウンテンを普請した。

 

 おれは苦手だが、親同士の付き合いも良好である。妻は近所のひとと話しているのが楽しいと云う。さらに云えば、親の援助が得られないおれたちだが、近所のひとが「ようたくん見てるよー」と云ってゼロ歳児の授乳中にようたを預かってくれる。すごく助かっている。

 

 おれたちは運が好いとおもう。きっとこれは特殊なケースなのだとおもう。ありがてぇな。マジで。

 

 しかし、この周囲には子どものいない家庭もいらっしゃる。地獄だとおもう。土日、宵闇がこの町をつつみこむまで、子ども甲高い声が響き渡り、市道、私道を駆け回る子どもたちに気兼ねして車を発進させるのにも細心の注意が必要なのである。

 

 そういった子ナシファミリーを思うと、ここは悪魔の住む場所のようにおもう。つらいだろうなぁ。いや、おれらが「大きな声だすな」と諌めればよいのだけれど、子どもが数人あつまればコントロールが効かない。いや保育園とかたいへんだとおもう。

 

 そんな悪魔的な新築街であるけれども、子アリの当事者であるおれたちにとっては、マジけっこういいかんじの住みかだとおもう。足元には白墨で描かれた解読不可能な記号の連続。耳をつんざく金切り声。見上げた空には入道雲が緋色に染まっていた。おれの肩にある涙の滲みに夕風が吸い付いてひんやりとする。ちいさな世界が回っている。

「最終的には奥田民生になりたいとおもっています」

 天下りの多い会社でやばいとおもう。弊社。こないだ、また「顧問」という肩書きの、見知らぬ御大と面談する機会があったのだが、おもわず「最終的には奥田民生になりたいとおもっています」と、口からこぼしてしまうところであった。

 

 というのも、「これからどうなっていきたい?」などという愚問を突きつけられたからである。おまえ、この会社だとおれのほうが先輩だぜ? 敬意、しめそうぜ? という感情が湧きあがったが、しょせん敵は老人。ここは鷹揚な若者の精神で赦してやることにしたのである。

 

 どうなる? おれはおれだよ。って。そういうことではない。アイノウ。まぁ、無難に立身出世のコースを歩きたいですね。まずは基本給を上げてくれないと困りますね。あ、うちですか? 共働きです。そうです。あはは、私のお給銀が低いからですね。ひとつの家庭も養うことのできない会社です。恥ずべきです。純利はけっこうあるのにですね。どこに消えるのでしょうかね。

 

 そんなことを言ったってしょうがないじゃないか。つってじゃあ正直に、おれはおれの心のままに、ありのままに、有体に、素直な自分を表現するならば、やっぱぶっちゃけ奥田民生になりたいとおもう。

 

 これは彼の生き方、思想、ライフスタイル、ラーメン、カレー、ミュージックに憧れる、というよりも、もうほんと本人になりたいですね。けっこうマジで。レスポールスペシャルにビグズビー付けたのも彼のせい。弦の交換クソめんどい。けれども奥田民生になりたいんだからしょうがない。とおもって超大なストレスを感じながらビグズビーという重荷をギターに背負わせてる。

 

 といっても、民生の音楽はサボテンミュージアムという音源を聴いたぎりなのだけれども、けれどもおれの心には奥田民生がいつでも住みついている。住み着いているし、なにか人生の岐路に立たされたとき、心のなかの奥田民生が「いいんじゃない、それで」みたいなかんじで言ってくる。

 

 そういう「なんでもいいじゃん」みたいなの。飄然としている。そのかんじ、おまえマジでかっこいいな、とおもっている。けれどもひとたび音楽面になると、常識ではちょっと考えられないくらいのこだわりをみせるのである。

 

 そこがかっこいいじゃん。有髯たる男子の理想のありかたといえる。やばいじゃん。なりたいじゃん民生に。ってゆうか、逆に訊くけど奥田民生になりたくない男っているの? ってなもんであるよ。ほんと。

 

 じゃあこれから民生になりにいこう。みたいに出来ないのが悔しい。ギャル男になりたいから、まずは日サロでこんがり焼こう! みたいにできないのである。だっておれはおれだよ。おれの塩基配列はこうなんだもん。でもきっと民生に近づくことならできるんじゃあるまいか。まずなにをすればいいの? それはきっとレスポールスタンダードを買うことだよ、なんておもってもそんな資金があるわけもなく、貧乏とは罪であるよ。まずは基本給を上げてください。

吹き荒ぶ風の上に茜色の空

 うどんやの釜だよ、まったく。って「うどんやの釜」というフレーズを学問したおれはすぐさま使っちゃいたくなるんですな。意味もなく。自分のそういうとこ少年じみてて好き。

 

 さいきんポリスに嵌った。あのポリスである。アップルミュージックに「おすすめ」として紹介されていたベストを聴いたらやっぱアンディサマーズのギターはかっこよかった。「曲がはじまればずっとおれのギターソロ!」みたいな傲慢なタイプではない、ちょっと身を引きつつも曲の補助的な演奏をするタイプ。ドラクエでいえば僧侶だとおもう。

 

 今日は午前中、保護者参観に参った。なんであいつあんなかわいいんだろ。筋金入りのパパっ子だとおもう。工作をして、体操をいっしょにやった。そしてついに謎のベールに包まれていた体操の先生の正体を暴いた。

 

 さいきんマグナムセイバーを買った。ミニ四駆という或る一定の年齢層に爆発的に流行した、あの爆走兄弟の弟機マグナムセイバーである。みてくれが格好良いわけではないが、なつかしさがこみ上げてくるようなフォルムに、胸の奥からカラフルな思い出が湧きあがってくるのである。

 

 男の子には父親がひつようだなとおもう。ミニ四駆が流行したとき、おれ以外のみんなは父親といっしょになってミニ四駆をやっていたので、付ければそれだけでたちまちスピードが上がるというパーツをあらんばかり豪奢に付けていたし、さまざまなミニ四駆大会に遠征したりしていて、こういう男の子の遊びは父親がイニシアチブを取ることによって盛り上がっていくのだなとかおもい、そういう思い出のないおれはちょっといま悲しいかんじになっている。お金かなんかください。

 

 ようやく名前も決まったので出生届けを提出しに市役所に参った。市役所の対応が最悪だった。めっちゃ丁寧だったのである。おれの理想の市役所というものは、受付窓口が機械的な対応、もしくは人を人ともおもわない見下げた対応をすることによって、こちらに精神的侵害受容をあたえる、するとこっちはこっちで怒りのパワーを、ブログかなんかで吐き出すことにより、かつておなじ思いをいだいたみんなで雷同する。一丸となって「憐れな小役人」とかなんとか言って市役所を糾弾する。

 

 すなわち、ここにひとつの市役所というエンターテインメントが完成する。そのはずだったのである。それがどうですか。えぇ? その一般的な企業のサービスカウンターのような態度は。児童手当のお兄ちゃんなんてのは慇懃すぎるくらいであった。駐車場のじいさんも朗らかなあいさつを放ってくれた。もっと、こう、冷たい空気であれよ。硬くて冷感な、魂のないにんげんであれよ。

 

 こうして世の中にじゅんすけという人間が新たに登録された。日本のために人口を増加させてやったぜ、なんて気持ちは毫末もない。好きで産んだ。妻は乳遣りで寝不足。でも、なにかおれに不都合な身の上が起こったら「おれはこうして子どもを二人も育てているんだ」とかいうおごった態度に出て、世の中を痛罵するつもり。だいじょうぶ、ちゃんとそのつもり。

日記

 十月二十五日。木曜日。夜。月のきれいな夜だった。妻とヴィゴ・モーテンセン主演の映画「はじまりへの旅」を観ていた。ヴィゴ・モーテンセンアラゴルンです。けっこうおもしろかった。

 

 映画中、なんだか腹の容子がおかしいぞ、と妻から申告される。まぁようするに「産まれそう」ってことなので、病院にテルし、LDRは空いているかと確認したところ、空いているとのことだったので、息子を抱きかかえ、いそぎ車に乗り込み総合病院へと向かったのである。

 

 夜半、総合病院へ着く。受付がとんでもねぇクソだった。ってゆうか総合病院って役所みてぇでもうホントきらい。ようたの時は産院だったのだけれど、産院っていいよ。やさしい。妊婦への配慮をきちんとしてくれる。それに比してなんなんですか君たちは。恥じろ人生。

 

 安産だった。妻は死にそうだったけど。酔拳2でジャッキーチェンが工業用アルコール飲んだときみたいな顔してた。四時間くらいで呱々の声があがった。十月二十六日。金曜日。午前四時三〇分。ようたも起きてた。途中で愚図ったので怒ったけど。ごめんね。

 

 男の子だった。ってゆうか知ってたけど。ようたは生まれた瞬間から紅顔の美少年たる気配をたずさえていたけれども、今回はふつうに嬰児だった。いや、かわいいですよ。たぶんそのへんの子よりは二千倍。

 

 ひんやりとした六時半。帰宅した。朝帰り。悪い子ね。って今日ゴミの日やんけ。いやー安産よかった。ゴミ、出せた。よかったよかった。っておれは少し寝たかったけれど、ようたがちょいちょい寝ていたので帰宅するとすごい元気だった。トトロが観たい、とかいうけれどさいきんレコーダーを交換したばかりで今テレビについているレコーダーにはトトロのデータが存在せず、いちいち古いレコーダーを取り出して、テレビに接続せしめ観さした。一時間くらいで飽きた。てめぇ。

 

 会社とか保育園に連絡した。朝餉というかブランチはカップヌードルにした。息子からのリクエスト。外ですこし遊んだ。ねてぇけど。ようたがさいきん生け捕りにした蟷螂に餌をやる。餌はモンシロチョウ。おれはさいきん昆虫採集の腕前がぐんぐんあがっている。

 

 不規則な睡眠だった。ようたが午睡をたくさんした。ってゆうか本睡? おれはちょっと家のことをした。洗濯とか。洗い物とか。つうか日曜の夜、母が来るというのでその仕度をした。布団の準備とか。めんどうだからこなくてもいいのに。たぶん彼女なりに焦りがあるのだとおもう。祖母としての焦燥。まぁしょうがねぇじゃん。

 

 面会しに病院へ行った。なんだか一日の境界線が曖昧だった。今日が何曜日の何時なのか。おれはだれ? ヴィゴ・モーテンセン? いかすぜオーケー。まーた総合病院の対応に腹辰則。お役所的「なんで君そんなことも知らないの?」っちゅう態度であった。妻が退院したら爆破する予定。

 

 夕刻。ようたが「かまきりの餌獲り」に惑溺沈湎マイブーム。しかし夜の降ってくるスピードが急激にあがったため、虫たちもお尻を出した子一等賞状態。そんなとき、ご近所さんから、ようたくーん、と息子を呼ぶ声がする。おめでとうござい。てぇへんでしょうに。うちでちょっと預かりますよ、ってなことでありがてぇ。ほんとにありがてぇ。っておれはすこし寝た。というかあれは気絶だとおもう。

 

 晩飯は牛丼。牛丼を食うたびに脳内のノエルギャラガーが「ロックだな」と云う。くそうまい。ようたといっしょに「クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望」を観る。おもしろかった。風呂に入って寝た。途中で起きて、また家事をした。

 

 土曜。ミニ四駆を走らせに電気屋へ行く。カップヌードル。見舞い。病院のにおい。自販機のラインナップがセンス皆無。洗濯物。ちょっとずつ生活のリズムを戻す。三十を越えてわかったけれど、睡眠は質でも量でもない。睡眠はリズムである。いつもとおなじリズム。これが枢要じゃな。

 

 日曜。あいかわらず蟷螂の餌獲りに拘泥している。しかし蟷螂の図体にたいして虫籠のちいさきことはなはだしい。してからに、ちかくのビバホームなる店舗にて虫籠を新調した。

 

 見舞い。マックドナルド。混雑。病院が計画停電をする日だった。12時にはエレベが停まるというので、余裕をもって移動していたにもかかわらず、肝心のエレベが待てど暮らせどちっとも来ない。そのうち12時になり、ざんねんでしたーってなかんじかい。いや、みんな切れてたぜ?

 

 けっきょく階段で五階まであがる。徒歩よりもうでける。まだ五階でよかったよ。しかし、そこでさらなる試練が待ち受けているとは、このとき微塵もおもわなかったのである。ってまぁいろいろあったけど持ち前のラッキーで切りぬけた。とにかく総合病院だいきらいです。

 

 夜。母が来たので家の説明をする。ただの家事。正直、おれは家事が苦ではないので、そんなことで恩を着せたような雰囲気をだされるのも癪である。まぁそのへんは意を汲んでやろうとおもう。

 

 おめでとう、と云われるとすこし恥ずかしい。これからやっていけるのだろうか。そういう不安がめっちゃある。生活のなかで命を産みだれかの為に働く。生きるってたいへんだよ。