そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

神さまおれは今、人生のどのあたり?

 土曜。息子が皮膚病をわずらったっぽいので、皮膚医者にいく。門前市を成す、てのはこのことだね、つって一時間半待機せねばならぬという状況におちいった。そもそも、この日、おれたちは安産祈願に参るよていだった。ちなみに前日。その神社の社務所にテルしたら、うざがった、昆虫を手ではらうようなしゃべりの態度をされて、相当な心理的ダメージを負った。

 

 そのことを妻に洩らしたら「きっとそいつはうんこしたかったんだよ! あたし、明日言ってやろうか? うちの傷つきやすいゆうちゃんを傷つけた、うんこしたかったヤツはだれですか? って、言ってやろうか?」と、すごく元気だったので、おもしろかった。へんなひとと結婚してしまった。

 

 で、一時間半のあいだに、ピューッと詣でた。それほど大きくない、荘厳というよりは、庶民的な神社であった。褪色した朱の鳥居に、のどかな風がとおっていった。落ちている木漏れ日は眠そうに揺れていた。神社のジャンルは「子授け・安産」だったので若人がおおい。初穂量は五千円だった。安産アメニティをもらって、ご祈祷をさずかった。三歳児も場面を察しておとなしかった。帰りに賽銭箱に数十円を投擲ちゃりんして、再三の願望をもうしあげた。たのむぜ神よ。

 

 とんぼがえりで皮膚医者にいく。弾丸ツアーであった。息子は伝染性膿痂疹、すなわち「とびひ」のちょっとしたヤツ、とのことだった。さっぱりとした優しい皮膚医者で好き。軟膏と粉薬を処方された。薬局で製粉機のつごうがわるくなり、時間を食らった。

 

 待合の車中で、息子はプラネットダイナソー、おれはハスキングビーのグリップを聴きまくった。グリップには、いっそんの声の「嗄れみ」にバンドの粉骨砕身や、駆け抜ける速度のなかで目的地にだけ焦点を結んでいるような、そんな超エモいかんじがあって、好きですね。

 

 帰路途次。ヤオヒロに寄った。さいきん、近所のご夫人と食量調達の方法について談義したさい、「えー、ここに住んでてヤオヒロ知らないのー!?」みたいな、嫌味や、不遜や、衒いのない、たんじゅんな驚きに触れた。あまりの驚きの純度の高さに、おれたちは逆に歯がゆかった。なぜ当局には地域のお得な情報が舞い込んでこぬのだ。

 

 ヤオヒロはやすかった。とくに野菜類が安く、しかも品質もよかった。ただクレジットカードが使用できないのがあかんかった。買い込んで、冬のシマリスのように食量を貯蔵した。

 

 帰宅して、昼餉を摂取し、午睡しよっか、となっても息子が「せぬ」と申すので、拙宅の庭、外周であそんだ。近所の小学生が、我々と面識のない近所の小学生とあそんでいて、輪に入れない息子の佇立した姿に哀感をおぼえた。一緒にラジコンをしたが、すぐにバッテリーが切れてしまった。

 

 午睡せんかったので、息子が午後七時には寝てしまった。しめしめ、とおもった。さいきん妻とプリズンブレイクを観ているので、これでたくさんのエピソードを消化できるぞ、と獪猾なおもいでいた。食事を用意した。あまりものをオムレツにしたり、レタス、キューカンバーアンドトメイトゥを切ってドレスさせたもの、おれはレタスはちぎるより包丁で切るほうが好き、ってこれはパーレンで括るべきでしたかな、あと、先日コストコで購入した水牛のチーズや、オリーブの漬物である。簡素であったけれど、うまかったし、腹がふくれた。満腹中枢と血糖値が上昇し、すぐ眠ってしまったのが残念だった。ふと、体幹を鍛えようとおもった。

 

 日曜のことも書こうかな、とおもったけれど、めんどくさくなったのでやめる。エレカシの新譜もちょくちょく聴いた。村山☆潤はエレカシの荒荒しさを前面にだしていて好いプロデューサーだな、とおもったけど、あの☆のぶぶんが、めっちゃむかつく。

待てど暮らせどぼくの日常は変わらないまんまで

 そりゃそうか。変えようと、してないもんな。なんて歌ってたバンドがいたが、いい歌じゃの。バチョウのネナシグサ。滂沱たる涙をしぼった。日曜はビニールプールをひらいた。すんごい暑かったから。

 

 すると。突然。同年代の子どもが二匹やってきた。雑駁な談笑。たのしいひとときだった。サングラスをしているひとに対して、おれはどこを見て話せばいいのかわからない。茶色の眼鏡は、そんな逡巡する滑稽なおれを反射せしてめていて、二倍かなしい。

 

 昼時。うどんを食っていた。おれたちはうどんを食っていたんだ。はは。なぜ二度書いたのか。サラダうどん。レタス。トマト。ツナ。きゅうり。鶏卵。ごまだれ。開け放たれた窓から一陣の風がとおりすぎていった。ごおぅ、と天空から飛行機の音が舞い落ちてきた。かんじた夏。さ。

 

 こども園の方角から「ハンカチはうすいハンカチーフ地を用意せよ」という矢文が風を切り、頬をかすめたので、ちょっくら買いもん。なんてって、出かけたのさ。今日はそういう語尾でいきましょう。

 

 しかし西松屋というキッズ専門の問屋には、タオル地のハンカチしか販売しておらず、困じ果てておったところ、格安の殿堂という、まがまがしい装飾に塗れたドン・キホーテという問屋には、大量に販売されておったのじゃよ。ほほ。ポケモンとビルドとカーズがプリントされたハンカチーフを購入した。のさ。

 

 その他食料品を数点買い込み、帰宅。車中をとおりぬける風はなまぬるかったが、肌に触れるぐあいはずいぶん心地よかった。バックグラウンドミュージックはジェイミーリデル。塵埃が肌に纏綿として、夕日に厳しさをおぼえた。

 

 夕景。近隣に住まう子どもたちと息子があそんでいた。泥団子。水鉄砲。自転車。補助輪つき。バケツ。シャベル。しゃぼん玉。すべてが橙に染まっていった。

 

 夕飯のビーフシチュー。うまかった。コストコで購入した中落ちカルビーに、赤ワインとすりおろしたまねぎの液を浸透させた。ちなみに今日の朝餉もそうやねん。

 

 三歳児が「ママとけっこんする」と言っていた。「でも、ママはもうパパと結婚してるからなー」と妻が言った。息子は泣いた。なんでやー! つって泣いた。おい三歳児に現実つきつけんな。で、ずっとパパとママとようたくんでいようね、って遁辞していた。二十年後とかもおなじこと言えんのか。

 

 冷涼な夜気がひっそりと満ちていた。アスファルトの冷えたにおいが風にのって寝室まで届いた。今日も終わったな。とおもった。夏の風が吹いた日曜。タオルケットと干した布団のにおい。

幼稚園に負けたくない

 昨晩。闇に乗じて帰宅すると、洗面台に衣類があった。息子の体操着であった。泥が飛散しており、とても汚れていたため、ウタマロ石けんを利用し、泥をおとし、日立のビートウォッシュにほうりこんだ。

 

 三歳児はこども園という、保育園と幼稚園が綯い交ぜになったハイブリッド園にかよっている。そこではきほん、体操着をきてすごしているのだが、毎日超汚して帰ってくる。

 

 毎日汚れるのであれば、そんなに洗わなくてもいいだろう、という甘い気持ちが滲出してくる。どうせまた汚れるし。おおきくなったら買い換えるし。なんておもってしまう。

 

 しかし、ふいに「やっぱ保育園の子はお父さんもお母さんも忙しいから…」という声が聞こえてくる。幼稚園組の声である。泥の落ちきらなかった体操着をきた息子。それをみた親の声。その発言は寛仁というメッキで固められているが、中身は嘲弄と侮蔑である。勝手な想像。おれは精神的病気かもしれない。

 

 だから、おれはここで手を抜くわけにはならない。完璧とはいえないけれど、自分のベストを尽くす。不惜身命。一所懸命。もみ洗い。ブラシ洗い。ふたつの技巧を駆使するのである。

 

「だから、負けなくないんだよ」とおれは朋輩に申し上げたところ、「そんなこと思いませんよ」と言われてしまった。語尾に(笑)がついていた。はは、なんてピュアなやつなんだ。おまえ、人生一週目だろ。

 

 世の中は悪意に満ちている。善意などすぐ染まってしまうのである。おれの人生はたぶん五週目くらいなんだけれど、もう転生しても転生しても、この悪意は濾過できねぇ。抜けきらない。

 

 だから世の中の悪意に対しては、おれも悪意で闘うしかないのである。デビルマン戦法。つまり、泥をおとしきることによって、「共働きでもこういうことちゃんとできるんですよ。おれたち夫婦はそういうとこしっかりしてますから。まぁこれくらいのこと、働いていたって普通にできますけど。あれ? 働いていないのにあんまきれいじゃないっすね? もしかして忙しかったんですか?」というスタンスをとり、保育園組のことをどこかで卑下している幼稚園組の悪意にたいして、さらなるマウンティングをとるのである。ここを地獄といわずなんといおうか。

 

 全人類が平等なわけなく、それはやっぱスタート地点というのに大きく左右される。たまたま金のある家に生まれてきた唐変木の遊冶郎に、おれたち正義の努力家が負けてたまるか、クソったれ。とおもって被害妄想の中、今日もがんばって生きている。

ファックフォーエバー

 トマトの実態について勘案していた。すなわち、トマトの本体とは内部のドゥルドゥルなのか。それとも表皮したの肉厚部分なのか。というポイントである。

 

 妻とひさしぶりに意見が一致したのだが、それは、トマトは皮の肉厚ぶぶんのほうがうまい、ということである。ゆえに個人的に、ってゆうか望月家的に、トマトの実態は皮の肉厚のぶぶんであってほしい。ということになる。

 

 ただ、おもうに。おれたち現代人は答えを求めすぎているんじゃないだろうか。いつだってそうだ。なにかにつけてはっきりさせようとしすぎている。理非曲直を判然とさせようとしすぎている。そんな破邪顕正、いりますか?

 

 はっきりさせなくてもいい。あやふやなまんまでいい。そうだとおもう。それはトマトのドゥルドゥルのように、種なのか、胚なのか、実なのか、よくわかんないままの存在でいい、ということである。つまりトマトのドゥルドゥルにはそういった曖昧な真実があるので、トマトはドゥルドゥルのほうがすごいということに帰結し、なんだか望月家的には、辛酸をなめたような結句におわったのである。

 

 本日邪魔した皮膚科がとてもよかった。対応が端的ですばやく、すいすいだった。ナイス。運動公園ですこしあそんだ。ほんのり曇天。国道沿いのその運動公園は、木々によって排気ガスから守られていたような気がした。昼餉がマクダーナル。いぬのぬいぐるみを手に入れた。

 

 ピー肉とローストポークと野菜汁を作った。ヘルシオの機能はもっと使用すべきだとおもった。晩飯は冷やし中華。息子のリクエスト。涙のリクエスト。バナナの感動。

 

 さいきん、歌モノがぜんぜんはいってこない。ゆえにジャズのようなインストばかり耳に入れている。昨日からジョンスコとビルエバばかり聴いている。ビルエバのピアノはやっぱいい。静謐な音をおいてくるかんじ。さざなみのように寄せては返すルバートのなかで、ひとつひとつ星屑をつまんでは置き、つまんでは置き、という作業的なふんいきもかんじるが、痩身のインテリジェントな翳を帯びたウェリントンめがねの男からは静かな熱狂を覚える。かっこいい。

 

 でも車中ではリンキンとジャームスを聴いた。中原昌也が言っていたが、いい音楽って、演奏技術があるとか、曲がいいとか、オリジナリティがあるとか、そんなんじゃない。おれもそうおもう。

 

 アマゾンで購入したスイスなんとかっていうココアがうまかった。濃厚。農耕。トマトを育てたい。

ミルキー

 昨日。息子にはじめてミルキーを与えた。息子は一粒のミルキーを猜疑心たっぷりに見つめ、それをほおばった。そのときの霧がかった鬱蒼たる深い森から、ぱっ、とひらけた場所、それはきっと南国のヤシの木が生えた紺碧のビーチで軽快なラテンミュージックが鳴っているような場所、に出たときのような、晴れ晴れとした顔面への変化がとても気持ちのよいものであった。

 

 さいきん気がついたことがある。子どもには親が選んだものを与えるのもいいな、ということである。おれと妻はできるだけ経済的に生きるエコノミックアニマルなので、無駄な消費はできぬゆえに、お互いのプレゼントというものは「相手がほしいもの」を現地調達することにしている。

 

 息子にもその方式を適用していたのだが、かれは玩具屋にいくと遊戯にふけってしまい、なかなかものを選定できない。そこでおれがホットウィールのセットを選んでさしあげたのだが、それをとても喜んでくれた。わぁー、ぱぱ、いいのをえらんでくれてありがとう! だって。くぅー、かわいいぜ。

 

 三歳児にも欲求はあるようで、トミカがほしい、とか、恐竜がほしい、とか、ビルドのボトルがほしい、とか、彼らも物質世界に囚われていて、たいへんだなぁ、資本主義だなぁ、なんておもう。

 

 だから「これあげるよ」つって譲渡したものがそぐわないと「これじゃない…」的ふんいきになるので、できればそれは避けたい。だが、たまにはこうやって「これはすきそうだな」というものを献上するのも、なかなかいいな、とおもったのであった。

 

 ゆえに。おれはミルキーを購入し、昨日の朝まで保管しておいた。息子は自身の気に入ったものしか食べないので、「ミルキー食うか?」ちゅっても、かぶりをふって「いらない」と示す。しかし、ひとたび包装紙をめくり、乳白色の粒を出さしめ、おれが食っていると、こちらに寄ってきて興味ありげな濡れた瞳をかかげてくる。

 

 そうして、もう一粒あたらしいミルキーを出すと、まずは舌の先でペロッと舐め、毒ではないことを確認し、そしてその甘露をかんじた彼は、それをほおばったのでる。

 

 ミルキーはママの味。なんて惹句がある。たしかに、あの練乳を凝固せしめたような口腔内にへばりつくような甘みは、とてもクリーミーで永劫的な持続性があり、そしてそれは鼻に抜けるときに、甘さゆえのちょっとした酸味を放つのだが、それはおかあさんの首筋の匂いのような、抱きしめられたときのような優しさがあって、やっぱパパの味ではないよなぁ。なんておもう。

 

 けれども、息子のミルキー原初体験をにぎったのは、おれだ。ははは、ざんねんだったな。彼にとってはミルキーはパパからの味なのだよ。つって、今日も与えていたら「虫歯になるよ」って妻に言われて、なるほどなーそういうとこちゃんとお母さんやな。しっかりしてはるわ。えらいわ。でもミルキーうまいよな。どんな困難があってもまた一緒に食いたい。

ウルトラマン芸人を三歳児は新シリーズ「ウルトラマン ゲーニン」だと思っていた

 ミスチルの楽曲に「サイン」という曲の他に「しるし」という曲があって、イングリッシュバージョン? ややこしいな、なんておもっていて、そんでなんとなく「しるし」収録のアルバム、HOMEというのを妻と聴いていたのだけれど、かくなる「はい、どうですか? このストリングス感いいでしょ? 涙を流すポイントですよ?」みたいな大仰なアレンジに鼻白み、クソだな、や、馬鹿がこぞって好きそう、と散々なミスチルアンド小林武士、ひいてはミスチルファンの愚痴をいいまくったのだけれど、ほんと自分たちの性格の劣悪さだけは息子に継承されないでほしいな、なんておもった。そんな素敵な金曜の夜。

 

 拙宅の屋根裏。あー、屋根裏。よくライブしたなー。下北と渋谷。なつかしー。つってそんなマイ屋根裏にて、息子とあそんだ。小窓があり、空には夏の青。積乱雲をちぎったような雲が浮かんでいた。百円で購入した水風船を炸裂させたりした。昼はチェーン店の中華料理屋にいき、五目そばを食った。息子はお子様セット。妻はエビチリと水餃子のセットをうまそうに食っていた。中国系の店員さんがやさしかった。パパママカードをもっていなくても割引してくれた。

 

 おもちゃは買わない。強張った意志をおもっていた。しかし、かうの! とこちらも頑固な一徹。まったくだれに似たのやら。と丁々発止していたところ、妻が「でもこれがあった…」と逡巡の色を帯び、売り場からもってきたのは、なんとホットウィールデロリアンであった。これなら買うの! と購入した。意志とは。

 

 ドキュメンタルのシーズン5を見た。おもしろかった。気持ちのよい終わりであった。ピーブイ狙って感想でも書こうかな。エスイーオー対策してさ。はは。苦笑。はは。二文字の「はは」は渇いている。

 

 日曜は妻が学会だったので、息子とふたりであそんだ。プライムビデオのウォーキングウィズダイナソーという活動写真のコンピューターグラフィックスがよくできていて、また物語調ですげぇおもしろかった。ビルドは戦兎がのっとられたし、ところどころ使用される「○○、△△するってよ」のフォーマットの強さをおもいしった。朝井リョウに金が入りまくっているらしい。

 

 花の水鉄砲。くらって慟哭した。近所のみなさんが引くくらい泣いていて、おれはちょっとおもしろかった。衣類は水鉄砲よりもかれの涙で濡れていたからだ。公園にルンペン。すみきった光のなか、すこし冷たい風が吹いていた。昼はコンビニ。セブンの籤があたった。息子の強運。アメリカンドックください! って言うのかわいい。

 

 あにはからんや午睡してしまった。息子とともに。シオランが戦犯。さびしげな声で「ママは?」というのが胸を詰まらせる。でもアイスを食って元気元気。南極カチコチ大冒険を見た。おれのドラえもんのものまねはD級。

 

 今日の昼飯はお弁当をこさえてきたのだけれど、つくった鶏マヨは出来立てのほうがうまかった。さいきんは冷やし中華を食っている。冷やし中華の汁はタレなのか? それともツユなのか? という点において思案投げ首。また眠れなくなってしまった。冷やし中華の限界効用逓減。来週こそはやばいかも、でもいけるかも? って半信半疑。微妙なニュアンス。

いちご刈りではなくいちご狩り

 クリエイティブなことがしたいなぁ。やっぱほら、おれってものづくりの人間じゃないですか? なにかつくってないと死ぬってゆうか。いうなれば創作のマグロね。だからほとばしるオリジナリティを具現化しないといけないんだよねー。

 

   みたいな驕慢なスタンスからの物言いがすごく好き。もう身の毛のよだつほどに「おまえなにさまだ」とおもう。

 妻がいちごの苗を頂いてきた。それがたしか、えーっと、過去の日記をさかのぼると師走ですな。師走にいちごの苗を植えた。

俺、クリエイター志望 - そしてブルーズへの回帰 

 それが実った。かいがいしい妻の水遣りによって、ついに果実を結んだのである。祝着至極。おめでとう、望月家。ありがとう、望月家。

 そんないちごが仰山クリエイトされたので、食べた。うまかったそうだ。おれ? 食ってない。ほとんど息子が食った。あと近所のキッズ。彼らは、いちごの培養プランターに鈴なりに馥郁し、いちごを狩ったのである。

 狩る。いちご狩りの狩りには「けものへん」が付いている。どういうことやねん。おれはいままでそうおもっていた。そんなちいさなことを勘案しているからいつまでもうだつがあがらぬのだよね。知ってる。

 しかし、「いちご狩り」の狩りについて、ようやくおれは判然とした。つまり、これはハンティングの心構えが肝要である、ということである。どういうことか。次の段落へつづく。

 いちごの培養プランターに群がる少年少女たちの貪婪なアティチュードは、まさに毛だもののようであった。肉食獣のそれであった。まさに「狩り」であった。我先にと色艶のよいいちごを先制しようとしていた。すなわち、生きるか死ぬかの瀬戸際がそこにあったのだ。

 植物を採取するばあい、「刈る」という字がおれのなかで湧く。しかしそこには闘争心というものがない。とても牧歌的だ。田園が浮かぶ。茶がにあう。そんなうかうかとしていたら、最後の一摘みまで狩られてしまう。

 いちご狩りは競争である。生死をかけた闘いがある。だから「狩」という文字をつかう。明日を生きるために、ひとはいちごを刈るのではなく、いちごを狩るのだ。

※追伸 「狩る」には植物を取りに行くという意味もある、とかいうコメントはいりません。

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