そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

MCで対バンの曲を否定するのはクソださい

 

知らない人は知らないくていい話題なので、ってかクッソくだらない話なのでこっちに書きますが。

Oというミュージシャンがある主張を曲で表現しました。そしてOの出演後の対バン、Yという楽団がMCで曲の主張に対し「そんなことない」という反駁をしました。おれはこのYというバンドがクソださいな、と思いました。

批判はしてもいいと思います。でも、それがMCって、クソださい。なんのためにギターをもっているのか。おまえの音楽に主張はないのか。相手が丹精込めて創った楽曲をMCのひとことで片付けるのか。バンドをやっている意味がない。歌をうたっている意味が無い。主張は曲でしろ。歌詞や音楽的な部分でアプローチをしろ。それが出来ないのであればどんなかっこいい曲をつくったって、しょせん形骸化した音楽だと思う。

ロックは自由な音楽だと思う。その名称は、ロックンロールというのはアランフリードという白人のラジオDJが、黒人の軽快なリズム&ブルーズを流すときに放った言葉だが、ロックというのは「認識不可能な音楽」に対しての認識付けのための名称じゃないのかな、なんて思う。

だから当時白人に膾炙していなかったその楽曲群が、ジャンル分け不能だった音楽が「ロックンロール」と呼ばれだしたのは、必然的なことなのかもしれませんね。いまではそのロックンロールということばはオルタナティブに鞍替えされていますが。

まぁだから、ロックは自由な音楽だと思う。なにをやってもいい。音程をはずしても、リズムを狂わせても、かっこよければそれでいい。またロックは自己表現と商業主義のはざまで揺らぐエンターテインメントだと思う。だからパフォーマンスなんてのはとても大事だ。

だからステージで生きたコウモリをかじったり、チェーンソーで自分の足を切ったり、ライブハウスにショベルカーで乗り込んできたりしても良い。ああ、なんて懐の深い音楽なんでしょうか。でも唯一やっちゃいけないのが、曲に対して口頭で批判することだと思う。しかもそのミュージシャンとそのファンがいる眼前で。

なぜか。理由はクソださいから。どんなに自由でもロックであるならば、かっこよくするべきだ。それが、その反抗が口頭って…。俺は憐憫で仕方ない。ロックがただの標識に、ジャンルわけになってしまったのも首肯できる。いや、これはインスタ栄えする音楽と揶揄されてもしかない。だってその音楽には主張がないんだもの。

ほんとうに言いたいことがあるなら曲でしろ。それがミュージシャンだと思う。音楽なんて作り物だ。虚構だ。でもそこには感情をゆさぶる真実がある。それを魔法と呼ぶのならそうだと思う。それを脳科学的に証明すれば科学だと思う。ただの音楽ならただのおんがくでもよい。世界は曖昧だ。でも、己が感じること、感じたことというのはすべてだ。その全ての淵源が音楽にはある。俺はそう思う。

曲というのは創った人間にとって、子どものような存在だな、と思うことがある。おれはこれを子育てしていて気がついた。こどもが他のこどもと遊んで、誰かから認識され、個として存在しているとき、ひとりの人間として存在したんだなぁと感慨深くなる。

それをかつて曲で思ったことがある。お客さんが、おれの創ったメロディと歌詞をその唇から放ってくれたとき。おれの曲がひとつの世界に存在したんだな、と思ったことがある。すごくうれしかったし、まだあのときの感覚は忘れていない。

その自分にとって大事な音楽を批判される。そんなつらいことはない。もちろんそれは聴衆に揶揄されてもしかたない。だってロックもしょせんは客商売だからだ。でも、それを同業者にそしられるなんて。ってか、ほんとうに愛をもって曲を作っているひとならば、だれかの曲の主張に対してインスタントな口頭で批判するなんて出来ないよ。

ちなみに俺は、対バンのMCでディスられたことがある。「あんなの暴れているだけのバンドで音楽じゃねぇ」みたいなことを言われた。くやしかった。でもやつらの音楽のほうがクソだったから無視した。憎しみや暗黒面が強くなればなるほど良い曲がつくれたからだ。

MC同様にインタビューやらSNSで揶揄っているやつらもクソださい。こういうのを見ると、ほんとロックってただのジャンルになってしまったんだな、と思う。反抗ってそういうことじゃねぇだろ、と思う。

かつてディスられた記憶と、掲示板をあらされた記憶がよみがえったので書きました。そのあとの云々かんぬんなんてどうでもよい。発端である口頭で曲をディスるのが、まぁクソださい。そんなことをするやつは音楽家じゃない。そうおもいました。