そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

意味のない文章

 

意味のない文章。この文字列には意味がある。意味を読み取れる。

つまり「意味のない文章」という文字列、文章には意味がある。これは矛盾しているのではないだろうか。しかし本当に意味のない文章というものは存在するのだろうか。

たとえば。「こじふじょえまとき」という文字列は意味を成さない。つまり文章になっていないので、意味のない文章の土台にもあがってこない。では、慧眼を殴ってくるぶしをラーメン、と言うのはどうだろう。文章になっている。助詞があることで文章の体裁を保っている。では意味があるのだろうか。

一瞥しただけでは意味がわからない。しかしこれに意味を見出す人もいるはずである。世界には70億人も人がいてそれぞれに言語をもっている。そんなことを言う人も出てくると思う。それは表音的に「けいがんをなぐってくるぶしをらーめん」という日本語の文字列の配合が、遠い大地、アフリカのンジュクナス部族の発音では「あした俺んちでマリカーやろうぜ」と意味をなす場合がある。これは判然と意味がある。

そもそも、文章上での意味が、すべての意味ではない。もしかしたら不可思議な文字列である「慧眼を殴ってくるぶしをラーメン」を符牒としてエフビーアイや埼玉県警が使用しているかもしれない。そうなると、日本語の表音、表意上は意味をなさないが、この文字列が、文章の体裁を保つ「慧眼をなぐってくるぶしをラーメン」という音が意味をなさないとは断言できない。

現に、こうして私が意味をなさない文字列として使用している時点で意味を持ってしまっていると思う。ほかにどんなアンバランスな文字列、それは文章として成立するものを調合した場合、きっと意味をもってしまうのだと思う。

だから意味のない文章なんて存在しない。そうした演繹と帰結。おれはちゃんとしごとをしたほうが良いと思う。