コップに感じる文明の煩瑣
たったひとくちの水を飲むために、私たちは、大地を掘り、粘土を抽出し、それを円筒状に形成し、ときおり装飾を施し、それをかまどで焼く。
そのかまどに火をくべるのにも、屹立する林を切り倒し、さらに細かく切り刻み、乾燥させたりする。
火種を生み出すために石油を掘って、ガスを抽出して、ちいさなライターに詰め込んで、こどもが誤動作させぬようにと、そのスイッチを硬くしたりする。
そうしてできたコップを、今度は値段をつけ、市場に流通させ、貨幣経済の潮流にながしていく。それによってお金をもらう人もいれば、お金を出す人もいる。
お金をだして手に入れたコップに、水を入れる。
水道をひねれば水が出る。そのためにダムを作ったり、上水場を建てたり、水質の検査をしたりする。ペットボトルで販売されている水もあり、その水を生み出すために工場かなんかもたくさん存在する。
紆余曲折を経て、水は空間に滞留する。
本然、かたちを持たない水は、そのコップのかたちに整形される。
私はめんどうだな、とおもう。
利便性とは怨念にちかいものだな、とおもう。
いろんな思惑が地球でうごいている。地球の知らないところで。
たったひとくちの水を飲むために。