そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

俳句でも詠めそうなくらい、つよく抱きしめて

 過日。土曜。トマト公園にて遊戯。すべり台。露に濡れており、滑走不可。しかし息子は敢然とすべる。案の定、つめたい感覚がケツを襲う。陽射しは冬の斜光。空気はひんやりとしているが、陽光はあたたかい。すぐ、乾燥するであろう、とのことで遊戯を続行した。

 若者二名とともに関係性の不透明なキッズが一名。若者のひとりは金髪ピアスにブラックマスク。もうひとりは黒ずくめの黒髪シャギー。キッズは小学生中学年ほどか。

 サッカーボールを蹴っていた。乾燥した空気にボールを蹴る低音が響いていた。はずむテンテンとした中低音もこわかった。

 トマト公園には一本の枯れ木が植わっていた。細々しく弱々しい木だった。葉は赤茶けており、ほぼ死んでいた。すみわたった蒼穹にそれが映えてさびしい感じがグッドだった。一句詠めそうなくらいだった。

 一歳くらいの嬰児とその母親が公園をみていた。公園に隣接する住宅をアジトとしていて、公園とその住宅の敷地を法的に分断するフェンスのむこうがわにいた。

 その住宅のたたずまいが豪奢であった。庭には堅牢なウッドデッキが設えられており、掃きだし窓のガラスの中には猫もいた。所有する自動車も耽美なものであって暮らしぶりの豊かさが放たれていた。

 私はなんだか、もう二度と立ち上がれない。みたいな気分になった。経済的な優位性が幸福度にはつながらない。そんなことはないとおもう。カネがあれば仕合せだ。カネがあるのに仕合せでない、というひとがいれば、それは確実に劣等した人間だ。そうい言い切る。俺の仕合せを守るために。

 帰り道。畑の側道をとおった。青々とした葉は、てらてらと陽光を跳ね返していた。盛られた土は黒々として大地の生命力に溢れていた。吹く風でさえも、この彩りを祝福するかのようにあたたかく舞った。

 ふと、公園に植わっていた一本の枯れ木を思い出した。寒々とした空にただ一本伸びるその姿は、吹きつける風に負けまいとしているようだった。世界はうつくしいな、と思った。

ただ一切が灰燼に帰す

 クリスマスっていいなぁ、と思う。なぜならば、この時季「好い子にせぬとサンタクロースはプレゼントを贈呈してくれぬぞよ」となぞの言語で三歳児の血脈に向けて言及できるからである。彼のモラルに訴えかけ、強制的にものごとの推進を図ることができる。わお。

 クリスマスツリーを出した。もともと寓居に住まわっていたときからもっているアイテムである。しかし、1LDKではそこそこのオーラを放っていたこのツリーも、いまの拙宅ではまったく色気というものを感じない。ちいさすぎる。なぜならば拙宅、などと謙遜しているが、庭付き、プール付き、正門から玄関までおよそ二百メートル、玄関前はロータリーになっており、その中心には獅子が気高くそびえ、口からは滔々と水を吐き出している、みたいな噴水のある、まさに成金、白亜の宮殿、みたいな我が家は、いうなれば超豪邸だからだ。

 そんなわけでツリーの購入を思案している。できれば大きいものがいいなぁ、なんておもっている。ほら、あれあるじゃないっすか。こう、ツリーの飾りつけのとき子どもが椅子かなんかにのって、さらにその上で背伸びしてツリーの頂に星のモニュメントを飾る、みたいなやつ、あれ超あぶないっすよね。でもあれやりたいの。仕合せな感じすんじゃん。

 まわりのお家も、窓に粘着させるペタペタするゼリー状のクリスマス風の装飾をしていて、玄関に魔よけのリースなんかを飾っちゃってて好い感じにクリスマスってる。たのしいなぁ。

 個人的にはクリスマスカラーというものはベースとして三色であってほしい。深緑、赤、黄金。この三点セットがもっともクリスマス心をあおり、風情を出す。そこに白色なんてのも乙なものだ。

 ケーキをどうしようか。飯もどうしようか。もちろんチキンが好いだろう。ケンタッキー? 混雑が予想されます。うーん、つくる? めんどくせぇな。プレゼントは仮面ライダーのベルトを欲しているのでそれと自転車などにするつもり。三歳児に自転車は早熟か。少し悩みどころだが、赤い自転車も欲しているようだ。

 サンタクロースにその旨を電報で打たなきゃいけないなぁ。二階のベランダが侵入口です。なんつって。でも自転車なんて重量のあるものをもってこれるのだろうか。ラフタークレーンでもしようするのだろうか。それは近所迷惑なのでやめてほしいですね。トナカイは何馬力でるんですかね。出力全開。百万ほしい。

動詞的なキスを私にして

 

 ゲスの極み乙女という楽隊のことは聴くきかいがあまりなかった。しかし今朝、なんとなくそういうふうな大衆っぽい曲を聴きたいナァとおもい、アップルミュージックを使役して聴いた。かっこよかった。

 一聴すれば、まじりあうアンサンブルの混淆に、ごっちゃっ、とした印象を受けるのかもしれないけれども、各楽器のバランスがマジ完璧というか役割分担というかそういったものがされていて、聴いていて忙しかった。わお。

 バンドをやるようになって、楽器を個々に聴くような、なんだか調子に乗って音楽をなめくさったような聴き方をしてしまうようになったのだが、こういったアンサンブルに勇があるバンドを聴くと、途轍もなくうるさく感じる。

 逆にメタルのようなきっちりかっちり整然としたユニゾン主体の音楽はしづかに聴こえるようになった。メタリカよりもビートルズのようがうるさい。俺はコード感にいそがしさを覚えるタイプなのかもしれない。

 さらに云えば、バンドには固有の「型」のようなものが必要だとおもう。それはスピッツのような、異世界にひきずりこまれるような圧倒的なそんざいかんがあるボーカルならば、自然とよりそうように発生するものだとおもうのだが、ゲスの極み乙女というバンドには泰然と創作した一定の「型」があるように感ぜられた。自分たちの曲をよく知っている俯瞰をもてるひとがバンマスなのだろうな、とおもった。

 まぁなにがすごいか、って云ったら技術をひけらかすためでなく、聴かせるためにしようしていること。音楽的な素養があること。それをキャッチーとポップに昇華していること。あとミックスがすごいきれい。

 なんのはなしをしようと思ってたんだっけ。あ、そうか。あと一ヶ月ではてなプロの更新とドメインの更新がやってくる。どうしよう。ブログをつづけるか、つづけまいか。という話なのだけれども、まよっている。

 人生は有限であってこんなことに時間をさいているようじゃもったいない、というかなんというか、ギターとか弾いたほうがいいんじゃねぇか。と思う。ギターがまずいことになっている。そもそも技巧があるわけではないのですが。

 しかし、おもにブログを書くとき、というのは仕事の合間だったりするのでいい暇つぶしにはなっている。そんな気がする。もうちょっと考えて続けるかどうかは考えよう。

 ちなみにブログを書く、というとおり、「ブログ」という文字は名詞的なあつかいをするものだと俺はおもっている。ゆえにブロガーという言葉には不可思議なおもいをする。それをいうならブロギストやろ、と思っている。ギタリストが「ギターというものを扱うもの」という感じをこめるために「ist」という接尾語をつけるかのごとし、である。

 ちなみにドラマーはなぜドラマーなのか、というとそれはもちろん「ドラム」という文字列に「太鼓を叩く」という動詞的な役割があり「その動作をおこなうもの」としての「er」が接尾するからであってドラマーなのだが、ブログにはいま「ブログを書く」という動詞的な用法があるらしい。まじかよ。

 でもしかし、だいたいブロガーという名称をあつかっているブログをみると「ブログをかく」という表現をつかっており、いや、おまえさん、ブロガーというならば、それは「ブログる」とか云いなさいよ。と思う。そういえばキスをするひとはキッシストなのか、それともキッサーなのか。もしかして、キッサ店ってそういうことなのか…!?

 

話しのなげぇ皮膚科。乾燥しちまうぜ。心が。

 サムライジャパン、という単語に「サムライなんだからジャパンが当たり前やろ」とおもうのだが、つまりこれは「カウボーイアメリカ」とか「ピロシキロシア」とか「フラダンスハワイ」とか「電動エレキギター」とか「ラウドロック」とか「緊急レスキュー」みたいな漢字に、ってゆうか感じにぃ? 意味がちょうふくしてるよなぁ、なんておもう。そのなかで最近おもったのが「最愛の妻」というフレーズである。

 妻なんだから最愛だろ。とおもう。もちろん俺だってそうだ。妻を愛している。なんだよ最愛の妻って。みんなもしかして妾もってるん? わお。潤沢な経済力だ。べつにいいんじゃん? 愛を持っているひとがたくさん愛をばらまけば。そうおもうよ。カネがあればいいーーー、って歌あったなぁ。

 だけど告白します。私にも他に好きなひとができてしまいました。世の不義密通にさばきをくだすことなど僕にはできません。もちろん最愛は妻でございます。でもほかにも、この俺の蟠る愛を放出したいひとが出来てしまいました。つって息子なんだけれども。

 土曜。皮膚科に行った。息子の脇腹にぶつぶつのものが発生したのだった。アトピーではないけれども、乾燥肌だけれども、ほうっておくとアトピーのようになるよ、ということをくだくだと申していた。俺のブログのようだな、とおもった。待合部屋の読本のラインナップがさいあくだった。

 その午後。インフルエンザのワクチンを打った。息子が。ワクチンは足りぬらしい。政府は老人にインフルエンザワクチンをおすすめしているようだ。え。子どもに振り分けてやれよ。とおもった。「いったいいくつまで生きるつもりじゃ」と冗談まじりに語った政治家がいらっしゃるが、叩かれたようだ。でも、俺もそうおもうよ。

 夜半。俺は中途半端に寝むったので、ってこの「寝むる」って表記かっこいいよな。入眠にさいして眠る、という単語はなんだか、こう、サルバディーパンツ、若しくはおやすみマンを穿いているような安心感が演出されて、その心の安息みたいな感じ、落ち着き、が醸し出されるけれども「寝むる」。はっはー。これにはまいった。人体のシステムとして休止しました。酒を飲んでしまつて疲れなどいっさいとれませぬ。みたいな、とりあえず目をつむって刻がながれた、という、味気のなさ、みたいなものが「寝むる」というこの歌詞に表現されているような気がしてならない。ってもしかしたら誤字かもしれないけれども。日本語の語感。

 で、夜半。ウイスキーを半壜ほど飲んでしまったので昏倒し、覚醒したのが宇宙が日本の子午線を越える間際だった。そいで眠れなくなったのでドキュメンタリーのあたらしく出てきたやつを最愛の妻と観た。おもしろかった。ながくなった日記。さふいうこって、さよならグッバイ。

息子の虚言癖

 息子の三歳になるやつが、「私が仮面ライダーとなりて悪をほろぼす」とか云う。云うようになったもんだ。頃日はヒーロー系のものごとにこだわりだしており、脳の変化をかんじる。

 げんざいキュウレンジャーが放映されている。我が眷属は赤いものが好きなのだが、レンジャー部隊も赤が好きだ。キュウレンジャーの赤はたしかシシレッドというのだが、息子はそうは呼ばない。りんごニンジャと云う。

 正直ここまでかわいいとはおもわなかった。赤はりんご。ヒーローはニンジャ。りんごニンジャ。かわいい。ちなみに忍者をヒーローとする気概に望月性の宿命をかんじる。

 こういった適当な発言がぞうかしている。だれに似たのか虚言癖がある。あ、五月雨五郎はトニーウィリアムスの抜歯をした双頭のゾウだったんだよね、とか、あ、あそこの天空に夥しいほどの邪念が音符になってラシャメンのじゃがりこで墓穴掘ったんだよね、とか云う。なんだそれ。なにが見えてるの。

 さいきん、パパである私は「ほんとうはおさる」という設定になっていた。おさる、もしくはごりら、という配役がなされている。「ぱぱ、ほんとはおさるなのぉ?」と無辜な、いじらしい声を形にするものだから、「そうだうきー」とか云っちゃって、ほんともう、なんだか平和ですね。どこかの国で戦争をしているなんて信じられない。

 しかし、おさるもしくはごりら、の設定はたしか私自身が設えたものであって、「ぱぱほんとはおさるなんだよ」と云った気がする。さいきんはいろんなものを指差して「あれほんとはロボなんだよ」と教えるのが流行っている。

 自動車、家屋、電柱、スマホ、テレビ、鍋、ティファール瞬間沸騰メカ、栗、すずめ、歌舞伎役者、ぱんだぞううさぎを模したスプリング遊具、などを指して「これほんとはロボなんだよ」と教えるのが俺のブーム。

 そんなこんなで楽しい毎日を送っている。でもこのあいだ帰りの途次にて、自動販売機の背面がだしぬけに分裂し、なかのメカ類が回転し、それらが腕や足となってトランスフォームしてロボ形態になった。こわい、とおもったが、自販機ロボは身体をゆさぶり、なにかがチャージされたのか足をかがめ、蹲踞のかたちをとり、天球を仰ぎ、尻の部分から猛烈な勢いでなにかを噴出させ飛び立った。コーラだった。霧状になったコーラを全身に浴びた俺はからだじゅうべたべたになった。べたべたのまましばらく自販機ロボが飛翔した夜空を見上げていた。星のない、雲だけが浮いている夜だった。

くだらないの中に愛が

 星野源という人を「歌がへただ」とおもう人もいるかもしれない。そう思うのはミスチルの桜井やアイコのことを「歌がへただ」とおもう人が一定数いるからであって、ではなぜ、この人たちのことを「歌がへただ」とおもうか、というと、おそらくそうおもう人は耳が好いからで、なぜ耳が好いと彼らの歌がへたに聴こえるか、というと、彼らの楽曲のコードがオンコード連発でむつかしくて、メロディが浮いているように聴こえてしまうばあいがあるから、なんじゃないかな、なんておもった。まぁとにかく星野源はやばい。天才だ。

 そんなことを思いながら昨晩。私と妻はついに成し遂げた。ついにウォーキングデッドをシーズン7まで見終わったのだ。漸く現在絶賛放送中のシーズン8においついたのだ。これでネタバレがこわくない。

 しかし問題はわれわれが加入しているアマゾンプライムビデオでは、シーズン8は有料課金がひつようであって、そこまでしてみなければいけないか、といわれると、なんだかもっとやるべきことがあるような気がしてならない。焦燥感をかかえている。

 ともかく。今夜は喜び合おう。そうして共に興奮冷めやらぬまま、床に臥したのだが、ウォーキングデッドへの思いが強くなってしまい、眠れない。

 そうしてお互いに今日の感想、などを話し合っていたのであるが、それはなんだか、そこはかとなく、修学旅行で消灯後にわきあいあいと話し合う友達のようなニュアンスがあって、すてきだった。

 もちろんこれからのウォーキングデッドの話をメインに据えたが、夕食にあったえのきの話などをした。ちょっと塩っぱかったけどね、なんつって。時間が経ったからえぐみがつよくなったね、なんつって。いやーそうでもないでしょう、なんつって。えのきはバターしょうゆがあうね、なんつって。でも今日食べたのってしめじだよね、なんつって。くっくっく、なんつって。

 妻とはかれこれ十三余年の付き合いになるが、いつまでこうして友達のように話していられるのかナァなんておもった。くだらない話をしているときがいちばん楽しいのかもしれない。

狂った遠近法

 十一月十一日。土曜。晴れ。桃色のグラデーションが空色とまじわる朝、そしてツイッターで「ベースの日やで」とさかんに手持ちの低音弦楽器を晒しまわす朝だった。

 その午前。妻が労働により不在。三十一歳の霊長類が借金で売買契約をした陋屋で、その息子たる三歳児とともに息をしていた。吸ったり吐いたりする空気はするどく冷たかった。

 近くの公園にいった。息子は、飛行機の公園に行きたい、と申していた。飛行機の公園は遠いんだよ、と答えた。まだ「近い、遠い」がわからない。ちなみに「いつ」もわからないので不便だ。

 近くの公園で遊戯した。ダウン症? とおぼしき少年が祖母らしき人といた。息子よりも少し年齢がうえの子だった。帆船を模したすべり台で出会った。そのすべり台は昇る場所が三箇所ほどあり、息子はついにとうとう、いままでできなかったロープ式の昇降場所からなんなく昇ることができた。

 しかしそのダウン症ふうの男の子は、息子がなんなく通過する足場が格子上になって地面が透けている場所を「恐怖である」と陳情し、歩行に難儀していた。それを見ていた祖母らしき人は「小さい子でもできるのに、いくじなしね!」と言っていた。

 「小さい子でもできるのに」というのはたしかにそうなのだが、俺は胸裏で「ダウン症だから仕方ない」と思っていた。しかし、それって差別なのかな? ともおもった。それよりも純粋に「いくじなしね」というほうがダウン症の子に対する差別ではないのかな、とおもった。

 しかし、今現在。社会は個性を大事にしている。資本主義が行き詰まり、個人主義が横行している。そんな個人をたいせつにする、という点でダウン症であろうがなかろうが個人の得手不得手における不得手を「ゆっくりやればよい」と思うのは、差別ではなく純然と「個」を尊重しているだけではないのかな、という自分の葛藤があった。息子はその子に向かって透明な声で「がんばれー!」といっていた。

 遠くで父親らしき人とその嬰児があそんでいた。その嬰児がよたよたとあるき、ぽんっ、とまろんでしまった。そのとき、息子は「だいじょーぶかーい」といっていた。すきとおった空気に声は響いたが、届いたかどうかは判然としない。しかし、やさしさに泣いた。俺が。

 夕食はすべてがめんどくさくなったので幸楽園というラーメン販売所ですませた。息子は「本日は近くの公園に赴いた」という旨を妻に伝えていた。しかし、そのあと「近くとはどういった概念だ」と質問をするので、テーブルの割り箸を指し「これがちかくだ」と言い、窓からのぞく国道を走る自動車を指して「あれがとおくだ」と説明した。

 でもそうすると今日行った「近くの公園」は「遠くの公園」になってしまうなぁ、なんて思ってもうどうしようもなかった。夕刻。ひんやりとした闇のなか、まぶしいヘッドライトに照らされると暖かいような感じがした。握った掌は常温だった。