そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

コップに感じる文明の煩瑣

 

たったひとくちの水を飲むために、私たちは、大地を掘り、粘土を抽出し、それを円筒状に形成し、ときおり装飾を施し、それをかまどで焼く。

そのかまどに火をくべるのにも、屹立する林を切り倒し、さらに細かく切り刻み、乾燥させたりする。

火種を生み出すために石油を掘って、ガスを抽出して、ちいさなライターに詰め込んで、こどもが誤動作させぬようにと、そのスイッチを硬くしたりする。

そうしてできたコップを、今度は値段をつけ、市場に流通させ、貨幣経済の潮流にながしていく。それによってお金をもらう人もいれば、お金を出す人もいる。

お金をだして手に入れたコップに、水を入れる。

水道をひねれば水が出る。そのためにダムを作ったり、上水場を建てたり、水質の検査をしたりする。ペットボトルで販売されている水もあり、その水を生み出すために工場かなんかもたくさん存在する。

紆余曲折を経て、水は空間に滞留する。

本然、かたちを持たない水は、そのコップのかたちに整形される。

私はめんどうだな、とおもう。

利便性とは怨念にちかいものだな、とおもう。

いろんな思惑が地球でうごいている。地球の知らないところで。

たったひとくちの水を飲むために。

 

書くことなくて書くとこうなる

 

なーんか書くことないっかなー。

とブログに祟られた脳みそを持って生きていると、べつだん何も無くて、なんて退屈な人生なんだ!と嘆息していると、なんとアマゾンプライムデーというフェスティバルが開催されているではないか!

これはたくさんかってアフィリエイトしまくるぞ!ってんでアイホンにダウンロードしたアマゾンアプリを開示し、ページをまくっていくと、なんと、これは!ぜんぜん必要なものがないではないか!!

物欲があまりない私は買い物は基本的に必要なものしか買わないのだけれど、でもでもだってどうせ安いんなら買いたいじゃん。と小さな悪魔が囁いてくる。

いっぽうでそれを打ち消す大きな悪魔の声もする。「いや、そんなかんじでちまちま物欲を満たすなんて。ふっ、笑止。それを買った気にしといて小さく貯金。そんで買っちゃえよ。レスポール」なんて言うものだから懊悩。

あぁ!!悪魔が!!悪魔がああぁ!と喚き散らしていたところ、近所の人々が家々から「どうしたどうした」と出てくる。各々、きちがいだの、白痴だのと罵る声がする。なかには警察の電話番号を押すものもいるし、これは警察じゃ解決できんだろ…と手安い霊媒師をグーグル検索するものもある。俺を愚弄するんじゃねぇ!!と憤慨した俺はアマゾンプライムデーで格安販売されていた12番ゲージのショットガンをポチり、役所に届出を提出して免許を取得、その間わずか0.5秒であるが、しかしさすがヤマト運輸。宅急便というネーミングセンスは伊達じゃない。すでに散弾銃が宅配されており、黒くてずっしりとした殺意を集中に収めた俺は、底知れぬ勇気が湧いてきた。みなぎるその気力を銃身に装填し、放った。雷鳴と共に朱の花が咲いた。美しい、と俺は思った。同時に鉄のにおいと生ぐささが鼻腔を突いた。遅れて硝煙のにおいがすべてを是正した。つぎつぎと紅の花火を打ち上げていき、気がつけば足元に血液の川が流れていた。片足を上げてみるとすこし粘ついた。頭が重かった。なんてことをしてしまったんだ、と思っていると散乱していた肉片が蠢いている。なにも考えられない俺はただ呆然とするばかり。ぷるぷると振動していた無数の肉片は飛び上がり中空で弧を描いた。ぐるぐると旋回しながらやがてひとつの巨大な塊となり、その姿は、私はこれをどこかでみたことがある。あぁわかった。これは、ブリだ。魚のブリだ。と思った。巨大なブリは空を泳ぐかのごとくスマートに移動して、俺の眼前で制止した。そして「ブリちゃうで。ハマチやで」とそのブリは言った。俺はどうしても認めたくなかった。そいつがハマチであることを。だから握ったままにしていたショットガンを構えなおし、ブリにこう尋ねた。「ハマチ、ハウマッチ?」神の怒りをかったのか、その瞬間にショットガンが暴発し、俺の脳みそは吹き飛んだ。木っ端微塵になった脳みそはブリの餌食になったようだ。とても悲しい。

 

海外ドラマ「ミニマリスト」を観た感想

 

海外ドラマの「ミニマリスト」を観た。

あまり有名ではないと思われるが本国アメリカではあの「愉快なシーバー家」を凌駕する勢いだそうだ。その感想を申し上げたい。

その前にドラマ「ミニマリスト」がどのような概要なのかを説明する必要があるかもしれない。

ミニマリスト」は主人公であるクリストファー・トモユキ・ペパロニペルパルが、とある捜査一課にやってくるところから始まる。

この捜査一課というのは新設された精鋭組織であり、難解な兇悪事件を解決するためのものである。

そこにコンサルタントとしてやってきたクリスは事件現場にある遺留品を次々と断捨離。

しかし結果、最終的に残った物が決定的な証拠物件になり迷宮入りしそうな事件をぽんぽんと解決していくのである。

実はこのクリス、もともとはプロの仏教家をしていた。東洋独特のスピリチュアルな観点から、悩める子羊たちの懊悩を解決していった。

そのときによくやっていたのが家の調度品、家財道具を一瞥して、その人物がどのような人生を歩んできたか、またはどのような心理状態にあるのかを言い当てることだった。それが見事に的中し、クリスの人生相談を受けた人々はクリスを妄信し、クリスの進言を受け入れ、クリスに御中元を送り、さまざまな物品を断捨離し、人生を薔薇色に変えていったという。

そんなクリスは一躍有名になった。テレビにも出演し、本を出せばベストセラー、ブログも一日20億PVを達成していたという。そんな彼に悲劇が…。

コレクションとして大事にしていた盆栽が何ものかの手によって、ことごとく破壊されてしまったのだ。

打ちひしがれるクリス。現場に残された「ゆもち」という不可解な血文字。これは連続器物破損犯「ゆもち」の残すマークである。奴は破壊行動のさい、よく自分の身体を誤って負傷させてしまうので、その血で文字を書いて残すという不気味な習性がある。

そしてクリスは立ち上がる。私がこの手で「ゆもち」を逮捕する。そんな決意を胸に秘めて…。こうしてクリスは捜査一課に入ったのだった。

という物語なんですけど、まさかシーズン20まであるとは思わなかったです。でも一話一話が5分という短絡な物語なのですいすい観てしまいました。まさか「ゆもち」が亡くなったと思っていたクリスの…おっと、これはネタバレになってしまいますね。

感想はめちゃくちゃつまらないドラマでした。っていうかそんなドラマあるんですか?私は最近、妻と「メンタリスト」という海外ドラマを観ています。こっちはめちゃおもしろいです。さようなら。

 

 

きらいなブログ

 

っていうのも一定数あって、ってえらそうなことを書いてしまうけれども、なんなんだよ、こいつ。って思うのが、ただの情報の横流しみたいなブログである。

いっさい自分の思想とか体験とか情熱とかが入ってなくて、適当な文章とコピーアンドペースト、日本語で言えば複写安堵転載、をいかにも自信まんまんに貼り付けるだけのブログがまぁとにかく嫌い。

みんながこぞって同じような内容を垂れ流している。ばかじゃないの、と思う。いい歳こいて恥ずかしくないのかしら。たぶんこういう奴らは仕事も独自性のない仕事をしているんだろうなぁと憐憫です。そんなにPV欲しいですか。そんなこと書いていてもヤフーニュースと同じことしか書いてないんだから意味ないですよ、と思う。ミニスーファミミニスーファミうるせぇよ。お前らのブログなんて読んでいるよりツイッターとかニンテンドーのホームページ見たほうが有意義じゃぼけ。

だいたいこういう姑息なことをする奴らはブログ本!みたいなのを読んでいて、私はそういった本に記載されているブログ論みたいなものにも眉を顰めたくなる。

ってゆうかそういうのを読んでいる人が書いている文章がまさにブログ論、全開だぁあ!みたくなっていしまっていてそれだけで胡乱な印象を持ってしまう。だいたいそういう奴の一人称は糸井重里ばりの「ぼく」という平仮名使用です。

ブログで稼ぐことは悪ではないと思う。私だって広告を貼り付けている。だけどそういう意味のない、内容の無い、ただただ俺が不快になるだけのブログを書いている馬鹿をみると、あぁこの人はきっと低収入で必死でブログを更新しているんだろうな、そんな人に比べると私は年収5億あるので人間的にましだな、ふははは、そこそこブログにも自分らしさが出ているではないか!なんて思って私に自信がつくので、情報の垂れ流ししかできないブロガーのみなさんは頑張ってトレンド情報を追って、阿呆まるだしのブログを更新していてください。お元気で。

 

躍るブログ

 

なんだかブログをやっていていろんな方にブログを言及していただいた。

いっぽう私はあまり人のブログへの言及をしていない気がする。これはブログの方向性とかも関係あると思うのだが、私の場合「私なんかに…」といった卑下の気持ちが強いのだと思う。

けれども私もそこそこブログをやってきた。ブログを1年続けられる人はすごい!といつも読んでいる方もおっしゃっていたので、まぁすごいんだろう。だからそろそろそういった他の人への言及なんかもしていこうかな、なんて思っている。

やっぱりブログを褒められるとうれしい。1年もやっている割に月のPVなんかは10万とかいかないけど、それでも好きなことを書いていて、それに賛辞を送っていただくと小躍りしたくなる。ってか実際している。

もっとワードをたくさん入れて検索を狙う!みたいなこともすべきなのかもしれない。まぁ興が乗ったらやればよい。あと音楽系の記事も書きたいなと思っている。検索で読まれてるのは音楽系ばかりだ。

ついこの間、私の記事にわざわざお問い合わせからメールを送ってくださった方がいらっしゃった。これはとてもうれしかった。大躍りした。ちいさなジシンになった。

こっちのブログはどういう具合にやっていこうか、模索中である。「である」なんてカッコつけて書いているけれどもただの虚勢である。ってか体言止めがあまり好きではないから付けてしまうのだけなのである。って書くと体言止めをしている人が好きではないと捉えられがちだけれど、そうではなく、自分自身が体言止めするのが嫌なだけであって、他の人が使っていても別段なにも感じないとだけ記載しておきます。

なんだかんだで700文字かいてしまった。でもこんな感じで気軽にやっていきたい。

 

新月

 

目が覚めると6月だった。

日々を裏表しているような毎日である。しかし意識下にはいつだって月の境界線というものがある。新しい月になるたび、透明なフィルムをむいて、パッケージを破いたような覚えをおこす。でも結局はいつもの内容物であったりするから救えない。決して当たりくじなんて入っていない人生なんだな、と諦念する。

くしゃっと開けた6月にはおまけがついている。雨季という特典である。粘りつくような湿度が、むせかえるように心地悪く気管支を圧迫する。雨も、傘も、湿気も、なにもかもが鬱陶しくて、いやになる。

仄暗い水無月の憂鬱は、国民的休日の皆無も相まって、どこか疎ましげに思われる。それはきっとすべての生命体が煩うことであるのだなぁと低くなった曇天の空に思う。重たくなった空はいっそ落体して、この世界を飲み込んでしまえば、よほどのことが無いかぎり諦めがつくと思う。

6月10日がやってくれば、それは14年の号砲である。もう14年。紙雷管はすでに湿り気を帯びており、軽快な渇いた音は響かない。通例的な儀式として鳴らすけれども、それは卑小であって、重く鈍くすこしだけ空気を振るわせるだけである。

どんなに倦怠が募っても、しかし新しい日々の始まりであることは不動の真実である。やまない渇仰は、しきりに清澄な心であって、けして煌びやかな眩光は放たないとしても、それは上記でいう「よほどのこと」であると思う。

それは限りなく個人的なのわがままな念願かもしれない。しかし世相を鑑みてもそれはシワのない真っ白なシーツのように思う。我が家のシーツはダークブラウンだが。

 

やっぱロックが好きというタイトルを変更しました

 

 

なにげなく日記タイトルを変更してしまった。それはなぜかと言われればまぁちょっと編集に際してメインの「まだ」とサブの「やっぱ」でわかりにくかったんですね。

ブルースではなくブルーズと謳っているところがたいへんしゃらくさいですが、まぁいいかんじじゃないでしょうか。語感のリズムが良い。そんで最語を「き」で終わらせてライムを踏むかんじがまた洒落ていると個人的に思っています。って自分で説明すんのってめっちゃはずかしいですわ。おほほほ。って照れ隠しで、おほほほなんて書いてみましたが、本当はとても真顔で書いています。だってぜんぜんおもしろくないんだもの。

そうしてこっちの日記もたまに書かないとという義務感にさいなまれています。しかし正直なにをかこうかなーなんて思っている。アクセスどうでもいいし、見ている人がぜんぜんいないと仮定して書いているので、つまり天丼がすごいと思うのはそのネーミングですよ。「天」というのはもちろんこの世界の中空存在する青の存在であるが、それは神をも彷彿とさせる「天」であって、だから天丼てのは別称を与えるとすると「神丼」になるわけですよ。なんてな突拍子もないこと、おもいついたことをそのまま書くなんてもう最悪ですね。これからまた少し仕事というものをします。会社のパソコンでかいています。なんだかエクレアが食べたいなぁ。無限に増えるわかめ。