そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

生きてりゃ死にてぇときもある

 


私はファッション鬱なのでたまに死にたくなる。ファッションで言っている通称かまってちゃんなので、心のほんとうの部分では思っていない。たぶん。だから無視してくれて構わない。ただ私も心のないサイボーグではないので落ち込むこともある。

 

きっかけはなんにしろ、自己嫌悪といいますか、そんな自分が嫌いになったりするタイミングって「みんな」あると思うんですね。

 

こういう時って「みんな」そういう時があるから大丈夫だ。なんて思えないんですよね。利己的な思考になっているので、まず「全」なんて見えない。思考と書きましたが、精神と書いたほうが適切ですかね。

 

だから私はタイトルの「生きてりゃ死にてぇときもある」ってこれを生活のバイオリズムとして捉えることにしました。私の中では、かなりポジティブな発想なのですけど、もしかしたら「死にてぇ」という言葉がマイナスイメージに捉えられてしまうかもしれません。

 

今日はけっこう落ち込んだ。自らの思慮浅いところが起因だけど。まぁだけど相手も悪いよ。仕掛けにはめようとするなよ。人を陥れようとするなよ。騙し討ちするなよ。

 

と、マイナスをある程度怒りのパワーに変換できれば楽なんだけれども、なかなかそうもいかないのですね。あー、つらい。

 

でも大丈夫。いや、大丈夫なんて思えない。あーなんて俺は愚かしい人間で怠惰で駄目駄目でへなちょこで馬鹿で阿呆でみっともなくて、ってこれすらも思わない虚無。やばい。なにも考えられない。

 

でもこれは所詮バイオリズム。今日寝て、明日になれば精神状態はある程度、若干、すずめの涙ほど、だけど回復しているハズ。そんなもんだと思う。今日が原因で難関が待ち受けてるかもしれないけど、こころがいまいちばんつらい。

 

そのうち治るさ。だって生きてりゃ死にてぇときもあるんだもの。

 

 

ぽんこつ太郎

 

 

土曜や日曜のことを記載しようかな、と思い立ってはみたが、どうも筆(まぁキーボードだが)が進まない。なぜだろうか、と思案してみると、まったくもってなにもない土日であったことから、このような惰性的な日記になってしまっているのだろう。と、そう思っている。

 

なにもなかった。とはこれもまた珍妙なる言い分であるなぁ。まるで、飲み会の最中「ちょっと抜け出さない?」なんつって新宿の夜に消えた男女。後日「あのあとどうしたの?」と問うてみると、「いや、なにもなかったよ」って感じで、なにもないわけないのである。

 

なにもなかった。いや、朝の目覚めがよかったとか、調理したメシがうまかったとか、購買に出かけたとか、血のつながりのある子どもと一緒に公園に遊びにいったとか、もろもろあるはず。生命を謳歌していれば一日のうちに、なにもなかった、なんてことはないのである。

 

実際、上記のような事柄が私の人生の一部として大脳皮質に格納されている。とても楽しかった土曜日曜である。だがしかし、これまたブログに書くことなのか、と問われれば、もうぜんぜん書くようなこっちゃないし、だからと言ってブログなんだからそういった日常がにおうような記事も書きたいな、なんて思うわけであって葛藤というものなのである。

 

なにもなかった。そう言い切ってしまうのはブログ、日記に書くことを前提とした発言であり、もはや私も立派にブロガーぶっちゃっている、ってことなのかしら。いやだなぁ。

 

 

おれがおれが

 

このまま眠らずにいようか、なんて思うこともある。妻が就寝、私は自由。いまはひとりでワイルドターキーなるバーボン酒、洋蒸留酒をたしなみ文章を打っている。ストレートでちまちま飲んでいる。XTCを聴いている。アップルビーナスだ。

 

夜に強い。ナイトストロング。だいぶ酩酊してますか。てな感じですね。ほほ。

夜はいつまでも起きていられる。えんえん起きていられる。これは比較的むかしからそうだった。自分の時間が好きなんだと思う。でも、じゃあ、なぜ夜?朝はやく起きればいいじゃんなんて思う。

 

でも夜って無限。おれは思う。夜は無限なんだ。朝はいずれきてしまうけど。夜は無限に広がっている。晴天の青も好きだけれど、真っ青な空の虚構感。まやかし感。これわかる人いないかしら。しょせん光の屈折というか。幻像を見せられている。太陽という神に。

 

でも夜空は宇宙。「そら」なんていう地球規模のことばでは片付けられない圧倒的真実の無限がこの先にある。と信じられる。そんな感覚。いずれ同じことをメイン日記で言うかも。なんかかっこいいじゃん。こんな台詞。

 

おれは、かっこつけしい、なのかもしれん。そうやって自分をよくみせようと必死だ。それこそがかっこ悪い。わかっている。こうやって日記にかいている。なさけねぇ。そんな弱い部分も好きになってほしいと思っているのか。打算的。クソだなってところで、いやなきもちになってきたのでやめます。もっと明るい光をおくれ。

 

あ、またやきゅうやってる…

 

 

スポーツ観戦が趣味なひとがうらやましい。人生たのしそう。オリンピックだとかワールドカップだとか見られる人って時代をたのしんでいる感がはんぱない。おれはぜんぜんそういうの興味がない。ちょっとこまっている。

 

おっさんはもれなくスポーツが好き。なんでかわからんが。口をひらけばだいたいスポーツの話し。スポーツの話しってしやすいんだろうな。政治とか宗教とか思想がからんでくることはあまり他人と話さないほうがいいし、かなしい事件とかはやっぱかなしくなってしまうし、盛り上がらない。世の中みんな楽観的なつきあいをしたい。

 

で、おれはそういうスポーツの話についていけない。あはは、そうなんですかーと返す。会話がおわる。てかすでにおれがスポーツを見ないことを知っているおっさんたちは、そういう話しをふってこないので会話の手持ち無沙汰感がすごい。だからおれは困っている。

 

じゃあスポーツみればいいじゃんってなるけど、興味ないものを2時間もみれますか。映画一本みれますよ。映画を見る時間だってないですよ。しかも、いまさら野球なんて見始めたら、あ、コイツ、話し合わせにきたな、って思われちゃうじゃん。媚びてるみたいじゃん。ってなるから余計見られない。

 

なんでおれがこんなにスポーツに興味がないか、というとたぶんスポーツをやってこなかったからじゃないかな。というのも父親がいなかったからキャッチボールなんてしたことなかったし、まず野球観戦なんてしなかったし、サッカーボールだって家に無かった。たぶんこれが原因では、と思っている。

 

こういう一般的な家庭が体験することを体験せずに生きてきた。そんな気がする。ずいぶんな自分かわいそうアピールになってしまうが、じっさいいまこの三十路のおっさん的立場から、あのときの望月少年の境遇をみると胸がくるしい。せつない。

 

いつも国際的なスポーツが開催されるとそんな思いがわきあがってくる。なんかもっと他の人生があったろうな、と考えてしまう。

だから、世界中の人間がスポーツをみて幸せになる、なんてことはない。すくなくともおれは悲しくなる。東京オリンピックとかどうでもいい。むしろ辞めて欲しいくらいだ。

 

スポーツなんてばかが見るものだ。表層的でたんじゅんな感性だ。スポーツやってるヤツも、それ見てはしゃいでるヤツも全員不幸になれ。ってなる。思う。

 

と、書いたが、いちおうブログの形式で書いているので謝っておく。すみません。おれの心が腐っているんです。

 

 

モノでもんで

 

 

因果なもので。ことばは変化していく。さいきん気になるのは 「~なもんで」ということばである。

この日記の冒頭にも記載しているが、原因を指し示すことば。「~なもので」の撥音便化。そんで「~なもんで」これが猛威をふるっている。「そんで」も撥音便化ですね。

文体の口語化でしょうか。ブログはカチカチの文語体より口語体のほうが読みやすいですからね。ってこの最後の「ね」も同調を促す口語体。ありゃまぁ。

 

そいで、この「~なもんで」がたいへんなスピードで感染しているもので、逆に私はさいきんこの「~なもんで」を使いたくなくなってしまった。みんなとおんなじに書くことに抵抗が発生している。

そげな感覚に陥ってくると次は「~である」っていうのも使いにくい。断定の「である」。

 

私もようやく文体が安定してきた、というか読みにくい書き方をしているとおもうが、でもオリジナリティにはかえらんねぇやってことで、こんな感じで書いてます。が、この「~である」が使えないとなると、ちと障害。ハードル。

 

でもでも思うことは、やはり時代の潮流に身をまかせ、みんなと同じようにやらねぇと異分子あつかいをされ村八分。これは避けたい。みんなと仲良くしたい。ちやほやされたい。相互ブクマしたい。新着エントリーが失脚してしまったのでブクマであがらないと私の日記はみつけてもらえない。さみしい。

 

そんなこんななもんで、けっきょくこうやって渦中のことばを使用していくのである。

 

 

はるかぜ、とろり。

 

 

本日は、って昨日になってしまった今日の話しなんだけれども、とても暖かな一日。土曜出勤の妻を待ちわびる留守邸宅には、私と息子の血胤関係しか繋がりのないふたり。

 

とここまで書いて寝落ちしたんだろう。下書きにのこっていた。

 

タイトルからしてたぶん推測で憶測なんだけど、春風はふわっとしているんじゃなくて、なんだかとろり、としているのではないか?と言いたかったんではないか?といま考えているんではないか?なんて「ではないか?」を連結していきたいんではないか?ってこれでしめの結びにしようとしているんではないか?ってもう飽きたんではないか?って飽きました。

 

土曜日よりも日曜日のほうがくもってたけどあたたかかったですね。ってこりゃえらい普通の日記ではないか?

 

 

本を読んでもバカはバカ

 

 

わけのわからんカタカナが多い。なんだよプロトコル。右クリック検索。なるほど儀式。ふふーん。あ、ミッションインポッシブルであったな。って記憶の起床。でもあれは英語文化のものだからカタカナでいいけど、なんでわざわざプロトコルなんてつかうねん。

 

むつかしい言葉をつかうヤツがいる。そういうヤツってバカのコンプレックスがあるんだと思う。本をたくさん読めば頭がよくなると思っているのだろうか。だから私はそういうやつに言ってやりたい。本を読んでもバカはバカ。

 

おそらく本をよんで借りてきた言葉。ふだんは使わないであろう言葉を、自分を装飾するためにつかっている。たぶんそういう言葉って二、三年後にはつかってない。消化されてない。ガムみたいにくちゃくちゃ噛んでおわり。味気ない。味気ないし、場当たり的。

まぁ知性のかけらもない浅瀬にしかないような文章のヤツもいるが、あれはあれでバカを露呈するだけなので恥ずかしいね。気をつける。

 

そういう人のブログってだいたい見にくい。ブログは読む媒体でもあるけど、視覚的な要素も大事だな、ってさいきんおもっている。難易度の高いことばを辞書を片手に並べている。まぁおれのブログも大体見にくいが。どんなにむずかしい言葉をならべても見難いと、コイツばかだな、ってわかっちまう。たぶんおれも思われている。まぁべつにいいが。

 

こうやって批判的なかんじで書いていくと筆がまったくすすまない。まぁ誰にみられるわけでもないのでいっか。

 

おれもブログをやってきて、あ、この人は頭がいいな。とか、ちゃんと自分で考えているな。って思うブログがあることを知っている。その人のブログは見やすいし、わかりやすい。消化されていることばを使ったり、自己をとおったことばを使われると、自己の考えなんだな、って説得力がある。隠しきれない知性がみえる。見習いたい。まじ。

 

むつかしい本をよんでいる人はむつかしい本に影響されちゃっているのかな。いや、桃太郎を読んであんな感じでかけるなら本当の自分のことばなんだろうけど、たぶんああいうバカは自分のことばをもっていないので簡易なフレーズになるだろうな。

 

文章はリズムだな、って思う。そういうのが出来ている人をみかける。すごいなぁと思う。誰かのファンになることは、そこに限界点を作ってしまうことなのであまりしたくないが、このはてなブログで文章を書いている人で好きな人はそこそこいる。

 

そういうひとにかぎって意外と読者がすくない。だから逆に独り占めしているようでうれしいときもある。まぁ読者がいっぱいいる人もいるけど。まぁそういう人は文体に芯がある。きもちいい。

 

 

そんな人のブログをよんでもおれはバカみたいな文章を書いている。やはりバカはバカ。