そしてブルーズへの回帰

「まだロックが好き」のつづき

すずめの涙も集まれば大海に成り得る

 

 

ここさいきん、こうやってわーっと書くほうが楽な気がしている。言いたいこととかまとまらずとも、なんだかんだでその気持ちが前面に出てくるので良い。

 

加筆加筆でやっていくと、どうやらまとまらないことが増えてきた。今書いている記事がそう。昨日まであんなにノリノリで書いていたのに、急に冷めてしまった。

 

ただの愚痴なのでまぁそんなもんかな、なんて思うのだけれど、さすがに読んでいてくれる人がいるし、頭の悪さを露呈してしまうことになるのでそれは避けたい。

 

しかし、見直しなどができる点で分けて書いたほうが良いのかな、なんて思う部分もある。だってけっこう書き直したし。そもそもの正確が最悪なので、わーっと書くとえらい悪口ばかりになってしまう。冷静な判断が大事なのでは。

 

しかしこの書きなおしにより、書きたいことが逆に増えて支離滅裂というパターンが多い。なんでそれ急にでてきた!ってヤツ。これ足したいなって気分で足すべきではないのか。わからないが。

 

スランプといえばそうなのかもしれない。逆にツイッターとかのが楽だ。あんま見ている人もいないし。みなさん「いいね」くれるが。

 

ぜんぜん話しがすすまない。なんなんだこのタイトル。まったく本文関係ないじゃん。たぶん心のなかで、加筆について、小文があつまればある程度の文字数の日記ができるってことを考えていたんだろうけど、あ、だから今ツイッターについても言及したのかもしれない。

 

 

変動的記載事項における私的発信

 

 

こうしてブログに入れる時間を作ってもなーんにも浮かんでこない。そういう時もあるんだろうが、そこで無理やりなにかを書こうとしても、あまり良い出来ではなくなってしまう。

 

久石譲は毎日、同じ時間、同じルーチン、ワークスタイルで曲をつくっていると情熱大陸かなんかで見た。それはやっぱりアイツが天才なんだからだとおもう。凡人が久石譲を模倣しても所詮ままごと。あー。やっきりしちまう。

 

みんなテレビけっこうみてんだな。R-1グランプリとかドラマとか。俺はぜんぜん見られないし、会社の人たちもテレビみてる時間なんてないから、ほんとこうやって世間から取り残されていくんだな。ブラック企業は一種の寺だよ、世俗から隔離された修行寺。

 

せっかく時間を作って日記を書こうとおもってもこうやって愚痴になってまう。もっとおもしろいこと書きたいんだ、俺は。なにかこう、もっと読んでくれる人がニヤっとするようなモノ。でもなんかうまくいかないもんだなぁ。

 

PVが気にならない、なんて言うとウソになる。もちろん気になる。けどまぁ2万近くはふつうに行くので、これはすごいことだとおもっているが。

 

運営記録を発表する人たちはそれなりに自信があるんだとおもう。3ヶ月で10万とかバケモノだしな。けど、その結果を見て「あぁおれってブログもうまく運用できないんだ」なんて思い、やめてく人がいるとおもうと相互ブクマよりもゆゆしき問題ではないか、なんておもう。

 

まじめなことを書いちまってる。けどこの日記はマジ日記なのでそれはそれでいいかな、とおもっている。だって私はまじめなのでね。そもそも。

 

卒業のテーマのブログ、あーなんだか失敗したなぁ、もっと面白く書けたはずだなぁ。もっとちがうことで攻めるべきだったかな。卒業合唱ソングまとめ!みたいな。やりゃあ多少読まれるとおもうけど、ガラじゃないな。でもPVのためにやるべきなのか。

 

いや、もっと文章の修行が必要だな。ブログをがんばるつもりはないけど、もっと愛していきたい。

 

 

助走をつける

 

 

なんだか悪いとこしてしまったなぁなんて思うのは、やはりそれに時間をかけてしまわせているってことで、でも意外と個人的な問題ってみんな親身になってしまうんだろうな。心当たりは自分自身にもあるね。いやでも、よかったというか、なんというか。嬉しいよね。24時間テレビの応援メッセージみたくなっちゃったけど。

 

個別にしっかり返答すべきが大人なんだろうけど、それをまずやってしまうと、やったことから発生する源に牽引されてしまので、まずは自分のやりたいことをやったほうがいいですね。

 

いやしかしほんと、びっくりしたなぁ。自分の成長っていうとかっこよすぎるな、なんというか変化?もあるのでそれにびっくりしているのではないのかなぁ。まぁいろいろ試行錯誤してますが。

 

やはり、自分らしくってのもまた難易レベルが難のほうにやたらと高く、なんだかんだで読んだものや得たものに影響されるので本当に自分らしいってのは無いんだろうけど、自分らしく、せめてまっさらでしがらみのない場所ではそうありたいなぁ。

 

感嘆のちいさな「あ」を打つことが多いなぁ。それもまた個性なんだろうか。わからないけれどもまぁそういうことでしょうなぁ。なぁなぁとうるさいなぁ。

 

まずは今日、ひとつ好きなように書いてみようか。こうやって。でも仕事がちょい忙しいなぁ。ちょい、というかかなり。うーやばい。夜がきつそうだ。そして明日がマジで鬼門。がんばらない程度にがんばろう。そして今日も息子がかわいかった。

 

 

手前味噌の味。しょっぱい。

 

 

自分で自分の文章力というヤツがあがっていると思っている。ははは。自己愛。でもだれも褒めてくれないのだもの。でも「きみ、ブログうまくなったね」なんてクソみたいな文章を書く人間にいわれてもうれしくないが。でもそういうヤツいるのよ。

 

ブログの方法論が記載された経典があるようだ。たぶん以下のような感じで書いているヤツはもれなくそれに色づけされている。しかもだいたいそういうのをやっているのはいい歳こいたおっさん。おっさん、いい歳こいて個性ゼロ。クソみたいな人生。まぁ私の文章に剽窃がない、と言うのは虚構となるが。

 

こんにちわ。ウルトラマンブロガーの卍朗です。

みなさんはザリガニってどれくらい乾かします?ザリガニを乾燥させる時間ってもったいないですよね。

ぼくは主に日光乾燥なのですが、それだとカピカピになるまで3年。カラッカラになるまで17年かかります。セミ、でてきちゃいますね。ぼくはそこまで待てないのだ。

だからぼくはこれを使うようにしました。これを使ってからはもう目を見張るほどザリガニがどんどん乾いていくのです。

 

めんどくさくなってきたのでやめますね。俺なにしてんだろ。

明日はこどもの新保育園の説明会。まだメインのブログもできてない。

深夜2時。流れるブルースはクリスバーグソン。かっこいいね。俺は悪口ばっかでかっこわるい。

 

世界スーパーライト級日記

 

 

軽く書きたい気分のときに、この防空壕的日記が役に立つのだが、ここを書いてしまうと自己認証欲求が満たされてしまい、ってずいぶんかっこよく書いちゃうけどただ疲れちゃうので書き溜め用のブログがかけない。

 

ここだけの話。私はその日の日記をかくこともあれば、下書きになんとなく思ったことを書き留めておきそれを編集する、という2つの手法をとっている。いきおいの日記もいちおう何度か読み直す。一日置いたりする。そうすると誤字とかに気がつきやすいし、くだらねぇからやーめよってなる。だいたい平日更新しないのはその途中下車パターン。

 

そんなこんなはこの日記ではしない。しゃらくせぇ。そして私はメイン日記の育児記事がプチバズでちょっと嬉しい。うれしいんだけど、そこで増えてしまった読者様にたいへん申し訳ない、というちょっと重い気持ちが、私の精神の水面にとぷんと着水。沈み込んでいる。

 

だからくっだらないピザ記事を出してみた。ピザだけに生地。ほほほ。最高につまらない。つまらないのはピザ日記。

 

日記が好き。人の日記が好き、俺は。昨日今日でブログに私信を3件ほど垣間見たが、ああいうのが好き。なんか人生おもしれぇなぁなんて思う。メインで書くとブクマやらついてややこしくなるので書かないが、肉欲に負けるのはクソっぷりが清清しいね。すばらしいほどのクソ。それで人をキズつけるってのはもう私欲がつよすぎて憧れる。俺はあんなクズ行為できないね。臆病なので。

 

増田なんかで書いてみたいこともある。たくさん書きたいことがある。ただ意見を主張したいなら増田が抜群に力を発揮する。けど、これは俺の意見なので俺のブログでやりてぇな、なんて気持ちもある。でもやっかいなヤツだ、と思われるのもイヤだな。

 

ブログで検索流入だ、ブクマは気にするななんだかんだ言っておるが結局みんなPVなんだよな。PVというか収益だったりすんのかな。俺は年収が2億円あるのでカネはもういらないが。

 

私はブログでなく、日記を書いている。日記のあるべきすがたとはなんなのだろうか。なんのために日記をかいているのか。と書きつつこうやって若干読みやすいように改行と、文のまとまりを作ってしまっている。どういうこっちゃ。

 

 

「ちょんまげ」という響きに武士は侍魂を感じていたのか

 

はっはっはー。アクセスゼロ。しかしこうやってなにも考えずに日記を更新できると楽ですね。まじで。やっぱ。ほんま。これ。

 

ふいに「ちょんまげ」という言葉に違和が湧いたので書いていますが、これは本当の日記で書いたほうがよかってのでは?なんて思っている次第。だってタイトル、自分でちょっとおもしろいとおもっているもの。

 

ちょんまげ。えらいポップな響きだなぁ。どこをどうとってそそり立つそれをそう呼称したのか。しかしその響きとは裏腹にこいつは侍の魂。武士のプライド。男の大事なそれ。

 

日本の歴史には疎いので、かといって世界の歴史に聡いわけではないが、ちょんまげの誕生や使用期間などについて明白でないのだが、その大事さはなんとなくわかる。失態などのさいに切断されてしまうからだ。

 

ちょんまげはどうしてそんなに大事だったのだろう。ちょんまげがないと武士でいられないからか。それともやはりセッティングに時間を要するのでスタイリストをしっかりと用意してる、という他者からの視線評価が如実にあらわれるからなのだろうか。

 

ちょんまげは兜を被る際、合理的な髪型だとされている。そんなわけねぇだろ、とおもっている。だってどれくらいジェルつけんだよアレ。根元からぎゅうぎゅう巻いていくのたいへんだろう。あとあのままじゃ兜かぶれないじゃん。急に敵が攻めてきたときまずちょんまげおろすのかよ。大丈夫かよ城。迅速な対応できないだろう、それ。

 

けっきょく兜を被る際は髪をおろしている。時代劇とかで拝見する。つまり、被っているときは落ち着いていて、被ってないときはそそり立っている。

 

やはり、これは、うーん、どうかんがえてもちんこ。そういうことでしょうね。

 

だから武士は大事にする。武士のプライド。男の魂。失策の際は切り落とされる。これはやばい。だからちょんまげは大事。

ちょんまげのこのポップな響きも、これがちんこであるってことなら説明が出来る。ちんこてやっぱポップに誤魔化したいときあんじゃん。みんなで温泉いくときとかちょっとふざけた雰囲気なんじゃん。あれってちんこのポップさ、だと思う。

 

ちんこは大事だけど、ポップ。それがこのちょんまげという武士の象徴に隠されている。そんなことを思った駄文でした。

 

ちんこ IS POP!!

自由律俳句 「チンコ描いて包茎」

 

Hokokuji Bamboo Temple - Kamakura, Japan 2005

 

「咳をしてもひとり」

夜中にふと目覚めて居間に行き、そこでコホンと咳をした。

そこで思い出したのがこの言葉。

尾崎放哉という方の俳句だそうだ。すごいらしい。

しかし、だいぶ私のしっている俳句の概念と相違があるなぁ。

どういうことか?と、グーグルイッパツ検索をこころみた。

 

こういうのを自由律俳句というらしい。

五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに重きが置かれる 

引用:自由律俳句 - Wikipedia

 

もうなんでもありやん!というツッコミ待ちのウィキペディア

たまにこういうのがあるからネットというのは面白い。

 

しかし、この3語づつのリズム。また内容から醸し出される侘しさ、寂しさの世界。

たしかに、なんとなくすごいなぁ。と思う。

けど、私にも出来そう。ちょっと作ってみよう。となぜだか急にチャレンジ精神が湧き出た三十路のおっさん。ちなみにこのブログは音楽ブログ。なんだろう、最近とんでもないところに迷い込んでいる。

 

思い立った表題の句「チンコ描いて包茎

著者、著作を語る。ずいぶん恥ずかしいが、この作品のすごいところを解説したい。

 

まず、これは実体験に基づいている。

著者は中学生のころ、例に洩れず性に興味があった。

直接的に陰部を連呼する時期は過ぎ去っていたが、隠喩的にそれを表現し、みんなでケラケラと笑っていた。男子なら思い当たる節はあるとおもう。

ある時、その陰部をみんなで紙面上に象徴描写するタイミングがあった。

おもいおもいの自己の陰茎を描写する。

私が描いたのは以下のようなものであった。

 

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クレヨンしんちゃんの世界です。

私はかわいいゾウさんを描きました。当時13歳の少年はまだ真の姿を現していなかったのです。

しかし、みんなが描いたのは以下のようなものだったのです。

 

 

 

 

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美しくもかっこよいロケット型でした。

つまりこれはどういうことか、というと友人たちは、それが本人のモノであるか事実の正否はわかりませんが、そのタートルヘッドが露になった姿を描写していたのです。 

私は私のしっている陰茎と、みんながしっている陰茎についての知識の差に愕然としました。まさに尾崎放哉の句が俳句というカテゴリーであったかのように、私の知っているものと世間の意見が違うという衝撃。

のちのちに、私は包茎のおちんちん。みんなはズルむけのおちんちんを描いた、ということに気が付きましたが、当時の少年の気持ちを考えるとなんだか侘しさが湧いてきます。

つまるところ、この句には、

知らず知らずにまわりのみんなが大人になる侘しさ。

それに気付かずに少年のままでいようとする寂しさ。

が現れているのです。

 

 

俳句は、侘びさびの世界だと感じています。それが如実に現れているいい句です。

いつの間にか丁寧語になってしまいましたが、それも赤裸々な事実をおおっぴらにして大人になるという変化。

 

という下ネタ、作画ネタにとうとう手を出してしまった。

しかし、自作のゾウさん、なかなかの出来だ。ニヤついてしまう。

 

「ニヤついてもひとり」

深夜のテンションですね。ちなみにいまはちゃんとムケてます。